今月のおはなし

「慈光」通信を読む(2020年10月号より)

煩悩菩提体無二と…

(左訓=ぼんのう、ぼだいも、

    ひとつみつとなり、

    ふたつなしとなり)

― 親鸞「和讃」より ―

 

 ある話し合いの場で、三十代の男性が告白した。

 

 私は八年前に今の八百屋へ養子にきた。私は自分の手で店を立派にしてみせるぞと、えらい意気込みで商売にはげんだ。ところが一件おいて隣にも八百屋があり店も大きい。目の上のタンコブです。せりあいはエスカレートするばかり。向こうがやるなら、こっちも…と、百円で仕入れたものも百円で売るというケンカ腰でした。そうなると隣の主人が憎くて憎くて、もう何度殺してやりたいと思ったことか…。

 

 ちょうど四年前のそのころ、お寺で聞法会がはじまった。〝わが身を知る〟ということを主題に、毎月二回も親鸞聖人の話を聞くようになった。すると、これまで自分という人間がどれほど都合勝手で、自我中心の浅ましい根性で生きてきたかを痛烈に思い知る機会となった。また、おもしろいことに、半年前からその隣の主人も、住職の熱心な勧めで聞法会に来るようになった。私は今あんなに善い男を、どうして殺したいくらいに思ったのか…自分が恥ずかしく恐ろしいのです。

 

 その隣の店の主人とは、今こうして私の横におられるTさんなんですよ、と明るく笑った。

(「同朋選書」より)

 

 

 


【過去1年分の通信録】

「慈光」通信を読む(2020年9月号より)

彼是とするときは則ち我は非とす。

我是とするときは則ち彼は非とす。

我必ずしも聖にあらず、

彼必ずしも愚にあらず。

共に是れ凡夫のみ。

聖徳太子「十七条憲法」

 

 子供のケンカに親が出るというが、K子婦人も、我が子の訴えを聞いてカッカして、先方の子の方が悪いと相手の子の家に出かけていった。激しく言い合って、先方の親を、コテンパンにやっつけて溜飲を下げた。ところがその夜、ケンカで言い負かしたことが苦になって、どうも落ち着けない。こっちの言い分が正しいと信じていたけれど、それが異物を飲み込んだように、引っかかって明け方まで眠れなかった。

 

 明くる朝、早々に先方の家に行って、「昨日は本当にすみませんでした。あんなふうにまくしたてたことが、すまなくって、夕べは眠れませんでした」と詫びた。すると先方の奥さんが「まあ、あなたって素直な方ですね。私の方こそ、はしたなくムキになってしまって、お恥ずかしいことでした」というので、心が洗われた思いがしたという。それから二人は肝胆相照らす無二の親友付き合いの仲となったそうだ。

 

 人間が自我主張に基づいた善悪の立場を越えた時、そこにはじめて〝自他一如〟の世界が開けてゆくのだろう。その扉を開く鍵こそ、〝凡夫〟の自覚であり、目の前にいる人に〝南無〟する心なのではないだろうか。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年8月号より)

たとい我、仏を得んに、

国に地獄・餓鬼・畜生あらば、

正覚を取らじ。

 『仏説無量寿経』

                        

 これは人類救済の大事業を発願した法蔵菩薩の本願のことばであるが、同時に私たち人間の深い願いではなかろうか。

 

 ある一代で財をなした人が、死期もせまった時、遺産争いの内輪もめを知った。「私が一生涯かかって残したものは浅ましいケンカの種だったのか。みんなが仲良くすること、それが何よりの願いだったのに…」と、死にきれない思いを遺していったという。

 

 財産争いは、まさに地獄、餓鬼、畜生の三悪道を最もなまなましく現出する。怒りのために故意に害しあう地獄道。物欲のために浅ましい限りをつくす餓鬼道。本能のままに争いあう畜生道。それはまた私たちの日頃の自我中心生活そのままを象徴している。

 

 仏の教えに照らされて、我が迷いの心が浮きだされてくる時、「三悪道をはなれて、平和で、平らな、一味平等の世界に生まれたい」との人間の本然(深い“いのち”)の声が、法蔵菩薩の呼びかけに応じて、心の奥底から聞こえてくるのである。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年7月号より)

仏は医王の如く、法は良薬の如く、

僧は瞻病人の如し。

源信僧都「往生要集」

 

 故・亀井勝一郎氏の言葉に「病者の自覚が宗教的な深い第二の人生への門である」という言葉があった。人が悩みごとにぶつかったり、生の不安、むなしさ、絶望といったことを真剣に思いはじめるところに、〝病者の自覚〟がおとずれるのであろう。

 

 仏はこの病者に対して、名医のように診察し、人間の心は、自我中心の執着が元となって苦悩することを見通される。そして、病に応じた薬を用意されているのである。

 

 その薬にあたる教法はどこにあるのか。なるほど経典や書物や、また私たちの身辺にも満ちているにちがいない。だが、たんに教法は〝ある〟だけではなんにもならない。良薬も服用してこそ良薬であるが、教法も求める病者に真理の言葉となって響いてこそ、生きてはたらく。せまい暗い世界が広い明るい世界に、不安が安らぎに、むなしさが生き甲斐に、不満が満足に転回したところに教法は、良薬として光るのである。また看護人たる僧も、その使命の重大さを忘れてはなるまい。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年6月号より)

慙愧あるがゆえに、

すなわち父母・師長を恭敬す。

慙愧あるがゆえに、

父母・兄弟・姉妹あることを説く。 

―『涅槃経』

 

 今年は亡き母の七回忌にあたる。思えば、母の八十年の生涯は労苦にみちたものだった。嫁いでは、大勢の子の養育のため悪戦苦闘した。子女が片づくさなかに戦災によるドン底生活。つづいて多くの孫たちの世話。どうにか一ぷくできたのも長くはなく、老衰と病がどっとおそってこの世を去った。

 

 「大切にしなければ」と思いながら、ついさからったり、心配かけたり、きげんの悪い時など、ひどいことを言ったりした。悲しいことに、また愚かにも、母が亡くなってから、せつない母心が身にしみるようになった。慚愧が胸をしめつけた。

 

 母のことを思うとき、申しわけのない、恥ずかしい自分だと思う。また、ありがたい、尊い母だと思う。経典は、慚愧の心をとおして、父母がうやまわれ、父母と子との生死をこえた、内面的な真実の出会いが成り立つことを、説いているようである。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年5月号より)

人間は幸福であるだけでは充分でない。

その上、他人が幸福でないことが必要なのだ。

ルナール「日記」

 

 人間のおそろしいエゴイズムをついた言葉である。―私の知人に、健康にも長寿にも家庭的にも恵まれ、またその上に財産家でもある人がある。この人から「自分はしあわせ者だ」という言葉をあまり聞かないが、誰かが貧乏だとか、難儀しているなどの噂話の出たような時に、二、三度耳にしたようなことがあった。

 

 他人の不幸が引きあいに出た時に、人間が幸福を意識するのは、他人の不幸を踏み台としてきずかれた相対的な幸福感ではないか。またその中には一種の優越感もひそめられているようである。むろん私自身もその例外ではない。

 

 だが、順境の条件である健康、財産、身分などは、まことに不安定なもので、いつ失われるかわからないのだ。

 

 大事なことは、どんな逆縁になっても、また他人の身の上などと比較せずとも、このままで、人間としての深い、生きるよろこびを感ずるような身になることではないか。―だからこその「悪を転じて徳と成す」(親鸞聖人)ところの正しい智慧に基づいた本願念仏の教えが、我われ人類のために用意されていることの大切さを思うのである。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年4月号より)

深く因果を信ず…

 

 災難や病気にかかると、自分以外の何かの力が

そうしたように思う人が、世間にはよくある。

他人が悪いのだとか、亡者の霊のたたりだとか、何かの罰が

あたっただとか―

 

 過日、京都で「名古屋へ帰るのなら僕の車で一緒に行こうよ」と誘われたが、車は疲れるからと、すげなく断って列車で帰ることにした。ところが岐阜あたりであったろうか、とつぜん上から黄色い液体がたれてきて、上着からズボン、靴にまでベットリと汚されてしまった。向こう側の学生が、私の上にあった網棚の鞄から何かを取り出そうとして、瓶の蓋がとれハチミツがこぼれてきたのである。ミツというやつはまことに始末が悪く、困ってしまった。はては列車に乗ったことを後悔し、腹が立ってしようがなかった。

 

 だが列車に乗ることも、その座席を選んだことも、ひっきょう、その時の私の選択においてしたことであった。私の行為に〝縁〟がからんでハチミツご難となったのである。かく、すべては自因自果の必然。自業自得の道理と素直に受けとるほかに、この腹立ちがなごめられることはないのだろう。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年3月号より)

生きる因縁があるから…

 

 こんど私は、脳血栓の発作に見まわれてから、

すでに二ヶ月も寝込んでしまった。はじめ三週間

ほどは、先生(医師)が忙しい時間をさいて往診してくださった。今やっと一日おきに通院するまでになった。

 

 ところで、薬と食事療法がきいてきて快方に向かったのではないかと喜んでいるが「薬がきいてなおるのではない。なおる因縁(無限の条件)があるから、薬の方がきく。なおる力がなければ、どんな名薬もムダだ」という誰かの言葉を思い出した。

 

 すべて因縁随順である。なおる力が身にあるから、薬がうまく作用してくれるのだ。薬がきいて、なおるのではなかった。薬がきく生命力、因縁があったから、なおるのだ。同じように、食べもので、生命が保たれるのではない。まだ生きられる因縁があるから、ものが食べられる。

 

 「我等は絶対的に他力の掌中に在る」(清沢満之)と。大いなる生命の力の「はからい」を思う。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年2月号より)

如来の奴隷となれ。

其の他のものの奴隷となること勿れ。

清沢満之「当用日記」

 

 Y教授は、コップ酒をお茶がわりに出して一緒にやりながら話し合うのが好きな御仁(ごじん)だ。その人が、ぷっつり酒をやめたという。聞けば、夜中に歯が痛み出し七転八倒、あくる日、歯医者へ駆けつけたところ、医者からきつく禁酒を言いわたされた。誠実な教育心理学者であるこの教授は、「嗜好品(しこうひん)を断つ程度の自己制御ができないようでは、学生に教える資格がない」とも考え、また歯の激痛を天の声とも受け取った。それに酒をやると、おっくうになり研究も進まず思考力も鈍ることが苦になっていた矢先でもあったそうだ。「素直に身体の方の警戒警報にしたがったまでです」という説明であった。

 

 教授は、その身の〝事実〟の〝語るもの〟に耳をすましたのであろう。「身は本願の中にある。心が妄念(もうねん)妄想している」(安田理深師)という言葉があるが、身の事実にしたがうところに、身心一如の世界が開かれてくる。

 

 「如来の奴隷となれ」とは、我が身の足下で支え続けるいのちの事実を受け止め、真摯にうなずいてゆく真宗念仏者の姿ではないだろうか。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2020年1月号より)

しかれば、まれにも受けがたきは人身、

あひがたきは仏法なり。

蓮如上人「御文」

 

 ある女性が亡夫の十三回忌をいとなむことにしていたら、若い息子さんが大反対した。

 

 「おやじの法事だといって、坊さんの訳のわからんお経を聞いたり、うしろで親類の人がペチャクチャ世間話をやってるさまはナンセンスだ。おやじさんは、ぼくを特別かわいがってくれたし、ぼくもおやじさんが大好きだったから、その日はお墓で、ひとりでおやじさんと対話した方が、よっぽどおやじさん、よろこぶと思うよ」と言い出して母子喧嘩となった。

 

 形式化した法事への若い人の反発だ。だが墓前の対話だけでは教えの背景がない。お内仏(仏壇)は浄土や仏陀の説法のすがた、読経は説法の復唱である。ともに“教えを聞く”ためにある。問題は、読経の僧がお経を棒読みのままで事たれりとし、その内容を真摯に説き伝えようとしないこと、遺族も大切な法事を迎えながら教えの意味を聞こうともしないことだ。人身受けがたく、仏法はあいがたいものだ。

 

 せめて亡き人の命日を縁として、その人を深く思う心の上に人生の一大事―生死のこと、自己の生きがいの問題、人間成就“この私が私に生まれてきて本当に良かったといえる道”を真剣に聞こうではないか。

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2019年12月号より)

まことにもって、人間は

 出づる息は入るを待たぬならひなり。

蓮如上人「御文」

 

 知人が善光寺さん参りの列車の中で亡くなった。同行者とおしゃべりしていたのだが、突然、胸を押さえるや、そのまま息たえたという。

 

 思えば人間の命というも一息一息にかかっているのであろう。ただ今の一息にこそ“生” は結ばれているというべきか。はいた息の次に吸う息がくるのは、決して、あたり前ではないようだ。

 

 自然(じねん)の不思議な作用によって、この“不連続”であるべき息が、その時うまく連続のかたちをとって続いているわけである。

《もし本質的に連続しているものならば、死はありえないのだ》

だから“生きつつある私”の生は、ささえられ、与えられているものであった。いつもそれを忘れがちな私たちであるが…。

 

 生きていることは「ありがたい」とよくいわれる。この命が、永劫(ようごう)からの無量無数の歴史の重みを包んでいること、またその一息一息は絶対無限の働きの中にゆだねられ、その“おかげ”であるということ、そして大切なことは、そういう命の尊い意味についての、先覚者の教えに遇いえたということ ― が、素晴らしいことなのだ。それは、あたり前でない、あること難いこと「ありがたい」感謝すべきことといわねばならぬのである。   

(「同朋選書」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2019年11月号より)

もし誰かを幸福にしてやりたいと思うなら、

その人の持ち物をふやさずに、

欲望の量をへらしてやるがよい

セネカ

 

 物質追求や官能の楽しみに目標をおいている現代人にこそこういう言葉は大切ではないか。

 

 今の人は誰でも、昔の人に比べると持ち物も豊富で、いろんな楽しみもあり、結構な時代のようだが、生きる喜びどころか、満たされぬ思いで暮らしている人が多いようである。

 

 私の恩人で多くの人の尊敬をあつめていたM氏に、かつて自慢の硯(すずり)を差し上げようとした。「お心だけでけっこう。わしはこのごろ身軽になるために持ち物を手放すことに一生懸命だ。人生の旅にも荷物は軽いほうがよい」と言って受け取らなかった。そのことは感銘深く忘れられない。その人は九十歳近くまで生き、その徳をしたう集いは、十数年後の今日もつづいている。

 

 「足るを知るは富めり」(老子)「仏道を学ぶ人は衣食をむさぼるな」(道元)という東洋の言葉もある。―人間の主体的な幸福は、かえって物欲の否定、あるいは物質世界を超えたところに見出されてくるものではないか。       

(「同朋選書」より)