今月の言葉

「慈光」通信を読む(2017年8月号より)

他をとがめんとする心をとがめよ

 ― 清沢満之 ―

 

 仏の教えに「一水四見」の譬えがある。一つの水が、その生き方、その境遇によって、四通りに見られる譬えである。水は私たちに人間にとっては、まさしく水である。が、天人は瑠璃をもってかざられた大地と見、餓鬼はこの水でもって咽喉を焼く火と見、魚は住家とみる。


 これは一つの水を見るにも、その人の生き方、境遇によって違って見られることをいう。人に対しても、物に対しても、現象に対しても、境遇によって見方が変わってくる。従って、自分がこう見えたから、みんながそう思わねばならぬと強制することはいらない。なんでもない、これだけの道理がわからず、現実は自分の考えに固執し、主張して平和を乱している。


 他をとがめず心をとがめよといわれる。他とは、私たちが考えたもの一切をいう。その他は自分の考えた如くあるものでない。私たちのそれぞれの立場、境遇で考えた解釈が入っている。解釈された世界であり、人であり、物である。したがって、それに執われる必要はない。問わねばならぬ一点は、そのように現実をかたちづくる自分の心が、本当にあるべき境遇にいるかどうかだ。


 私たちの心のあり方をしめすもの、それが「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人」の六道である。その中、「人間」としてのあり方は、人生に苦、無常、不浄、を感じる時だといわれる。


 苦を感じる心は苦悩なき世界を、無常を感じる心は永遠のいのちを、けがれを知る心は清き心を願い求める。そこにこそ人間らしいあり方がある。私たちは、この心を失い、さまざまなことを考え、その世界に閉じこもって争いをおこしている。


 いま一度、人間らしさに帰ろう。そして他をとがめることなく、自らの心をとがめ、真に人間らしい生活をとりもどそう。

(玉永寺前住職・石川正生)

 

 

 


過去1年分の通信録

「慈光」通信を読む(2017年7月号より)

一息一息のところにある命…

 

 『処処経』というお経があります。これは小さいお経で、また『四十二章経』というお経もあって同じことが説かれています。その中で、人間の命というものはいくばくの間か、どんな長さかということをお釈迦さまが比丘たちに問われます。それをある比丘は五十年ですかというのです。今日では平均寿命が七十年を超えていますが、お経の中では比丘が人命五十かという。その答えに対して、お釈迦さまは肯定されません。平均寿命はあくまで平均した寿命ですから、誰の寿命でもない。私の命は、ということになってくると明日がいえないようになってきます。五十年だ、あるいは二十年だ、あるいはそれ以下、一月だ、一週間だと。こういうふうに答えが分かれて出てくるのですが、どうしてもお釈迦さまはその人命はいくばくであるかという答えについて肯定されないのです。そして最後の比丘が「人命、呼吸の間に在り」といいます。人の命というのは、息を吸って吐く、その呼吸の間に在りというわけです。


 皆さんも、何か重い病気をすると、おのずからそういうことはわかるのです。私もそうでした。高い熱が出るとすぐに寝汗をかきます。シャツを換えるとまたすぐに汗をかいてくる。そうすると、この自分の命は明日まで持つかなあという思いになるものです。そして絶対安静ですから、寝転がっております。そのいつの間にやら呼吸する鼻の所へ指がいきました。「お前の命は」といって息を吸ってフーっと吐いて、もう「一息追がざれば千載に長く往く」(歎徳文)というもので、これで終わりだというわけです。そうすると、一息一息のところに命があるのだなと思われてきたわけです。


 今『処処経』に説かれるお釈迦さまの説法というのは、無常迅速ということを教えられる。人間の命は一息一息のところにあって無常迅速だと、そこに目が覚めたのでしょう。人生七十年だ、いや五十年だと、こういった時は外の話なのです。そういう噂をしているだけです。このごろテレビや新聞で老齢時代がやってきて、これから日本はどうなるのだと喧しくいわれています。しかしそれは命の尊さというものがわかればなんでもないのです。

(元大谷大学学長・松原祐善)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年6月号より)

念仏の上に開かれる尽十方の世界

 

 もともと、自分自身、仏法の光につつまれて当然の身として自負している者には、尽十方などということは、少しもありがたくはないのでしょう。自分の力を自負し、頼みとする者には尽十方ではなく、実は“尽一方”の世界こそがありがたいのです。


 たとえば、受験生にとって東京大学はあこがれの的でしょう。しかし、東大はまことに狭い門であって、志望者の中のほんの一部の者が入れるほかは、多くの者が無念の涙をのまなくてはならないのです。いうなれば、エリートという一方だけを尽くす尽一方の学校なのです。しかも実は、だからこそ、念願かなって東大に入れた者の感激、喜びというものがあるのです。これがもし、尽十方の学校、誰でもが入ることのできる学校であれば、入学しても、なんの感動もおこるはずがありません。あるいはまた、先日やっとの思いで新調した服を着て颯爽と街へ出たところ、向こうから同じ服を着た人がやってきてバッタリ顔を合わせ、ガックリしてしまうサザエさんを描いた漫画を見ましたが、私たちには大なり小なり、そのサザエさんと同じ気持ちがあるはずです。

 

 誰もまだ着ていないものを私は着ている、なかなか入れないところに私は入った、皆入りたがったのだけれど入れたのは私独りだ、そういっては喜び、有頂天になっているのです。いわゆるエリートの世界です。それはみな、尽十方の世界に対して云えば、尽一方の世界だと云うことができるかと思います。そして、エリートたちにとって、尽十方の世界など一向に面白くも、ありがたくもない世界なのです。少しでも自分の力を頼むところのある者には、尽十方などということは、歓びであるどころか、まことに無意味なのです。

 

 そのことから申しますと、尽十方の世界は、人間からあらゆるエリート意識を奪いとる世界だともいえます。自分より下の者を見てほくそ笑み、自分より上のものを見て妬み、口惜しがるような、そういう私の自意識を根底から破ってしまう世界なのです。

(元九州大谷短期大学長・宮城顗)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年5月号より)

自己への固執…

 

 会社のことが心配だという人がある。子供の将来が心配だという母もある。夫の身体が心配だという奥さんもあるだろう。しかしその奥には、「もしそうなったら私はどうなろう」という心配が深くかくれている。
 愛情は清らかであり、尊いものであるといわれる、なるほどそういう面もある。しかしもっと深く考えてみると、そういう清らかな尊いものの底に、とんでもないもの、自分への根強い関心がかくされておりはしないだろうか。可愛いさ余って憎さ百倍というのは、人間の愛情の悲しい真相を物語っているようである。愛はいくら余っても憎さになる筈はない。憎さになるのは、自己への関心、自己が否定されたことによる怒りではなかろうか。


 一切の事に心を配っている。しかしそれに先立って自分にも気のつかぬようなもっと深いところで、たえず自分に配慮している、心配している。言い換えると、あらゆることに対する配慮が成立つその根底に、自己への配慮が極めて根強くはたらいているということである。夫を愛するというが、夫において自己自身を愛している。子供を愛するというが、子供において自己自身を愛している。一切がここから考えられて受取られている。何を見ても何を聞いても何を考えても自分を離れることが出来ぬ。このように、自分を離れられない経験を仏教では「有漏(うろ)」とよんでいる。


 「有漏」というのは煩悩を離れられないということ、自己関心から離れられず、従って私たちの経験は自分中心、自分をかためようとする経験ばかりであるということである。

(元教学研究所長・仲野良俊)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年4月号より)

生死流転(しょうじるてん)…

 

 朝、目が覚めてから夜眠るまで、いや、もしかすると夢の中でも人間は、次から次へと問題に追っかけられているようであります。あれも何とかしなければならぬ、これも何とかせねばならぬ。生きているということは、問題から問題へと続いて、しばらくも止まぬということではないでしょうか。(中略)

 

 ようやく子供が学校を卒業した、やれやれという途端に問題が起こっています。息子に嫁をもらって家の中が調った、喜ぶ途端に他人が入ったということで問題が起こって参ります。つまり、解決が問題を呼び起こす、解決を生というなら、問題は死でありましょう。生死、あるようになったことが困る種になる、望んでできたことから悩みが始まる、そしてそれが際限がない、それを「生死流転(しょうじるてん)」というのであります。

 

 これはただ個人の場合だけではありません。人間全体の姿がそういうものであります。人間の力で人間の問題を解決しようというところに文化というものがありますが、どこまでいっても限がありません。農薬と害虫が追いかけっこをしている、バイキンと注射薬が、病気と薬が競争する、交通が発達して時間が短縮されたはずであるのにいよいよ忙しくなる、人間が頭脳をしぼって見出した原子力がかえって人間を脅かしている。こういうふうに、人間の力で人間の問題を解決しようとする立場には終わりがありません。

 

 これがつまり、流転ということ、どこまでいっても際限がない、これが人間世界の事実であります。仏教は人間の世界が人間の手で終わるというような、甘い夢を見ません。落ちついて正しく人生を見るなら、人間の世界に理想郷(ユートピア)が来るなどとは、むしろ人間のうぬぼれではないでしょうか。

 

 こういうことを言うと、「それでは人間に希望がないではないか」「希望がなければ人生は灰色で生きてゆけない」という人もあるでしょう。しかし、まちがった希望が果たしてどれだけの役割を果たすでしょうか。むしろそれは人間をあらぬ方向に追い立てたり、悲観させたりするだけであって、もっとまちがいのないところから本当の願いに目覚めさせようとするのが仏教であります。

(東本願寺リーフレット「本願」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年3月号より)

 ある会で一人の方が質問されたことがあります。その方の親しい縁者の方が癌で入院しておられて、その方が見舞いにいかれた時、しきりにその苦痛を訴えられたそうです。その時その方は、私がどれほど貴方のことを思っても、貴方の苦痛を私が代わって受けてあげるわけにはいかない。貴方の身の苦痛は貴方自身が受けてゆくほかない。だから、その苦痛を身に受けて念仏してください、そう言われたのだそうです。そうしたら、その患者さんは、貴方なんかもう早く帰ってくれと云われたそうです。でその方は、こういう時どうすれば念仏させられることができるのでしょうか、と問われれるのです。


 私自身もこの二年ほどの間に、若い友人を二人も癌で亡くしました。とくにその一人は私に会いたがってくれ、数時間をその友人の枕もとにすごしました。はげしい痛みと、それをおさえる座薬の効果でウトウト眠りとの間、「自分の体ひとつどうしようもないですね」と訴え、ただ座りつくしている私に、ふかい、求める目を向けていました。また別の友人は、言葉をなくして立っている私に、「なかなか言葉はでないものですね」と、私を見抜く厳しい言葉とともに、しかも表現してみようのないやさしさをたたえた目で私を見抜いていました。


 たしかに、他者の苦痛を代わってあげるわけにはいかないのです。しかしそのことは、代わってもらえない人にとって辛いことであるだけではない、代わることのできないものにとっても耐えがたい悲しさと重さをもった事実なのです。その他者に対して何かしてあげることがあるということは、その他者にとって嬉しいことである以上に、おそらくは、してあげられることでこちらが救われ、心安まることなのだと、身にしみて思い知らされたことでもあります。ただただ傍に立ちつくしているほかなにもしてあげられない、ただ見つめているばかりで、自分の無力を思いしらされているほかない、その事実はほとんど耐えがたいことであるのです。


 つまり、その病人にどうしたら念仏させることができるかということでない、その自分自身の身の事実に念仏が出るのかどうか、念仏せずにはおれない心があるのかどうかの問題なのです。私に生きていない念仏を他者にすすめ、念仏させることなど、できる道理がないのです。

(元九州大谷短期大学長・宮城顗)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年2月号より)

相より相たすけ合う世界…

 

 材木商のHさんがこんなことを言った。私たちの取引は全部手形です。しかし、こういう時代ですから、手形の中からいつ不渡りが出るかも知れない。一枚でも不渡りが出たら、私なんか倒産です。そういう不安があるのです。しかし、そういうことを気にしたら商売はできません。相手を信ずることでこの商売が成り立っているのです、と。


 少しの油断もならない商売の世界で、その商売が相手を信ずることから成り立っているということは意味の深いことです。考えて見ますと、だまされたということも、やはり信じあう世界の上にはじめて成り立つのです。


 人間の"いのち"の本来性は、お互いがお互いを成り立たせ、お互いがお互いに依ることで存在していると言われねばなりません。そこでは自分一人だけうまく生きようという考えは、"いのち"の本来性にそむくものとして拒否されております。相より相たすけ、他とともに生きることで、かえって自己そのものが生きることができるという世界が本来の"いのち"の世界です。そういう世界が、私たちの経験に先だって与えられておればこそ、こうして人間の世界が成り立っていることを忘れたくないものです。

(「今日のことば」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年1月号より)

念仏といのり…


 かつてあるキリスト教の牧師さんが、いまは故人になられた東京大学教授であった常磐大定博士に、「あなた方の仏教には南無阿弥陀仏を称えるということがある。あれは尊いものですなァ」と、言われたことがあったそうである。その時、常磐博士は、「あなたの方にも、アーメンと称えるということがあるではありませんか」と言われると、「それはありますけれども、あれは牧師が祈祷の言葉の終わった時などに、みなが声をそろえて称えるもので、称えるところがチャンと決まっている。いわば儀式のようなものである。あなたの方の南無阿弥陀仏を称えるということは、あれはいつでもどこでも称えられるまことに結構なもので、私らの方にも、ああいうものがあるといいのですが…」と、しみじみとした言葉で言われたという。


 真宗の流れを汲む方々のうちにも、かつて考えたこともないことを言われたと思われる方があるかも知れません。勿体ないことですね。


 如来の本願は「いずれの行もおよびがたき」機を救うために、南無阿弥陀仏ひとつを御成就になって、私どもにお与え下さるのであります。その念仏はいかなる時、いかなる所でも、またどんな縁によってでも称えることができるようにとの御本願からあらわれて下さったのであります。なおそのうえ、称える人も男女貴賎老少善悪のへだてがないということは何とありがたいことではありませんか。


 「男女貴賎ことごとく 弥陀の名号称するに 行住座臥もえらばれず 時処諸縁もさわりなし」(高僧和讃)

 

 キリスト教に称えるものがないということは、キリスト教の神さまにはお念仏がないということでしょう。われわれには「称名必得生」の願いがかけられてあるということで、簡単なことではありません。まことにありがたいことと改めていただかねばなりますまい。

(難波別院バックナンバーより)

 

 

 

光寿無量 ~新年のご挨拶~

 新年明けましておめでとうございます。今年も慈光のもとに新しい年を迎えさせていただきましたことを、皆様と共にお慶び申し上げます。

 

 昨年も、国の内外共に心の痛む出来事が沢山起こりました。地震をはじめとする温暖化による異常気象や、その災害。国際社会ではナショナリズムが台頭し、国と国、民族と民族、宗教と宗教が互いにエゴイズムを主張し、敵対し合って、紛争・テロ・戦争の悲惨な状況が、日々深刻化しています。日本も、その国際情勢に動かされて、年々、軍事費が増大し、今年度は教育機関への、軍事研究助成費を一挙に18倍に増やすなど、戦争する国へと着実に向かっていることは憂うるべきことです。戦争を目的としたいかなる研究も、開発も、商法も、人類が真に願う平和を脅かし、壊していくものであって、容認すべきことではありません。

 

 また、毎日のように世界各地で起こるイスラム過激派による自爆行為は、現代社会が生み出す格差社会への抵抗であり、未来に絶望し、生きる意味を見失った若者の自暴自棄がテロへと追いやっているのではないでしょうか。それは裏を返せば、真に人間が問われ、真に人間になるべき時機、チャンスが到来していることでもあります。人類のいのちの底を流れ、いつでも、どこでも、いかなる生き方をしている人々の中にも流れ、つきあげている根源のいのちの要求、「弥陀の本願」が今の私たち一人ひとりに喚びかけています。

 

 現代の様々な問題の根は、すべて人間の問題であり、真に人間になる「根源要求」を問い、聞くべき時であり、機(チャンス)であることを露しています。宗祖親鸞聖人に御縁をいただいた私たちから率先して、「聞法生活を第一」として、人間に生まれた意義と生きる喜びを見出し、今年も心新たに、皆様と共に歩ませていただきたいと存じます。合掌

(当院住職)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2016年12月号より)

煩悩を断ぜずして涅槃を得…


 苦悩が救われるとは、一体、どういうことであるか。苦悩が救われるとは、苦悩がなくなることであると言わなければならない。しかしながら苦悩がなくなったとは、病気がなくなったというようなこととは違うようであります。救いということは、その「所を得る」ということである。「所を得る」ということは、善人は善人として、悪人は悪人として、男は男として女は女としてその場所がある。落ちつく場所があるということ。浄土とは、その場所であります。


 「所を得る」ということはどういうことかと申しますと、「それでよかった」ということである。いつもの例で申しますと、病気という苦しみがある。それが取れたということは、病気がなくなったということであります。しかし、真宗でいう救いとはそうではなかった。病気してよかったということが救いであります。五年間寝ておった病気が治っても、五年間寝ておったことは元には戻らない。五年間寝ておってよかったということで病気がその所を得る。その所を得ることを救いという。


 「老少善悪をえらばず」ということは、老人は老人でよかった。少年は少年でよかった。おまえ悩んだか、悩んでよかったなぁ。悩みがなくなるのではなくして、悩みに場所を与えられるのが「煩悩を断ぜずして涅槃を得」ということであろう。ですから、悩みと安楽が同居する。悩みの心の上に仏の大悲の心を知らせていただきますと、煩悩を断ぜずしてさとりを得る、で人間の悲しみと人間の喜びが一つになる。悲しみがなくなって喜びだけになるのでなくして、悲しみ多くして喜びいよいよ深し。人と生まれし悲しみを知らないものは、人と生まれし喜びを知らない。これが真宗の救いであります。

(大谷大学名誉教授・金子大栄)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2016年11月号より)

精進(しょうじん)について


 仏教に精進という言葉があります。精進とはつとめ、励むことであります。それはただ何事でも一生懸命するということではない。人のためにもなり、自分のためにもなるようなことを勉めるにかぎり、精進という言葉を使うのであります。人のためにならぬことはいくら励んでも精進とは申しません。


 たとえば、人の家へ盗みに入る方法をいくら考え、実行しても精進とはいわない。それは懈怠、つまり、おこたっているのです。だから知識がいくら進んでも、それが人間を無くすることを考えたり世界を破滅せしめることを考えるのであれば、それは精進でも進歩でもなく、懈怠であり退歩であるのであります。


 我われの知識は、人間の愚かさと共に成長してゆくようであります。病は薬と共に成長してゆくように、人間の愚かさは、賢さと共に成長する。知識が進歩し、人は賢くなったことばかり見ていますけれども、賢くなった分だけ愚かになっているのだ、こういうこともいえると思います。世界の国々が核爆発の競争をするなんて、人間はどこまで愚かなのでありましょうか。


 この愚かさを慙愧して、法を聞き、念仏せしめられる。この愚かな人間にかけられた仏の願いを聞いて念仏するということの外に、人間にとっては本当の智慧もなく、幸せもないのであります。それは今さら大昔の人間の状態に戻せというのではありません。人間の文化、知識はどんどん進むがよい。しかし、その進歩の舵をとり進歩が堕落ではなくて、本当に人間の幸せをもたらすものとならしめるものが、本願を信じ、念仏を申す教えである、こう私は思うのであります。

(大谷大学名誉教授・金子大栄)

 

 

「慈光」通信を読む(2016年10月号より)

人間の苦悩とその救い…


 人間が悲しいことにあうということは悲しいことにちがいないのでありますけれども、その悲しみが無駄になるようではなりません。悲しんだということによってはじめて分かることがあります。悲しみをしらない人に話しても無駄な事もありましょう。こういう意味において、悲しんだということによって、悩んだということによって、はじめてしらしめられる何ものかがあるとするなら、悲しい目にあって幸せだったということができる。しかしこういう幸せはどこから出てくるかというと、帰依の心、念仏する心からでてくるのであります。


 阿闍世王が御信心をいただいて仏法のありがたさが分かったときに無常の身をすてて、常住の身を得た。といっていますが、われわれも、仏法の智慧をさずかれば、その日その日がありがたいのであります。昨日ありがたくない人がどうして今日よろこべるでしょうか。今日よろこべないことでどうして明日よろこべるでありましょうか。親鸞聖人が「現生不退」とおっしゃったのはこれであります。


 いつ死んでもいいという思いと、いつまでも生きていてもよいという思い、この二つの思いが念仏というただ一すじの道において矛盾でもなく、平行線にもならないで、今日一日、本当に私は幸せ者であるとしみじみと感得せしめられるのであります。

(大谷大学名誉教授・金子大栄)

 

 

「慈光」通信を読む(2016年9月号より)

自己に充足して、求めず、争わず、
天下、いずれのところにか
これより強勝なるものあらんや、
いずれのところにか
これより広大なるものあらんや。
 ― 清沢 満之 ―


 僕たち青年は何でもかんでも不満足だ。これでいいなどとは断じて思わない。いつでもこれでは駄目だと叩きつけたくなるような衝動にかられて、夜も眠れない時だって、いくらもある。

 

 しかし何故、不満足なのだろう。腹の底からこみ上げてくるこの不満の情のなかで、ふと僕は自分を考えてみるのだ。世間があんまりせせこましくって、ずるくって、弱虫のくせに欲ばかり多くって。いや、大体自分がその通りだから始末に負えない。自分をもてあますのが青年である。


 僕たち青年はそんなせせこましいところに生きられない。だからこそ不満やる方ないのだ。はてしなく大きなもの、広いもの、強いもの、優れたもの。それが僕たちの五体に漲っている「いのち」だ。この「いのち」を見出したものはあらゆるせせこましいものに不満足でありつつ、そこに充足する。天下広しといえども、何のおそれることがあろうか。

(東本願寺出版「今日のことば」バックナンバーより)