今月の言葉

「慈光」通信を読む(2017年12月号より)

共に助け合って生きる…

 

 お釈迦様が、縁起法に目覚められた時、「諸の衆生において、視(みそな)わすこと自己のごとし」(『大無量寿経』)というように、すべてのものをあたかも自分を見るかのように見ておられたといわれています。また、お釈迦様の言葉が集められた『スッタニ・パータ』という経典の中に、「真理は一つであって、第二のものは存在しない。その真理を知った人は、争うことがない」という言葉があります。真理を知った人は、いかなるものとも争うことのないほんとうの生き方をしていかれたということです。

 

   さらには、「あたかも、母が己が独り子を身命を賭しても護るように、そのように一切の生きとし生けるものどもに対しても、無量の慈しみのこころを起(おこ)すべし」とありますように、あらゆるものをわが子のように慈しまれながら、真理に目覚めることを願い、教えを説いてゆかれたということです。


 そして、この縁起法というものを、わかりやすく、身近な言葉で明らかにして下さったものに、小説家の司馬遼太郎さんが、小学校六年生の子どもたちに向けて書いた次の文章があります。


      人間は、

      助け合って生きているのである。

      私は、人という文字を見るとき、

      しばしば感動する。

      ななめの画がたがいに支え合って、

      構成されているのである。

      そのことでも分かるように、

      人間は、社会をつくって生きている。

      社会とは、

      支え合う仕組みということである。

      原始時代の社会は小さかった。

      家族を中心とした社会だった。

      それが次第に大きな社会になり、

      今は、

      国家と世界という社会をつくり、

      たがいに助け合いながら

      生きているのである。

      自然物としての人間は、

      決して孤立して生きられるようには

      つくられていない。 

      このため、助け合う、ということが、

      人間にとって、

      大きな道徳になっている。

      〔『二十一世紀に生きる君たちへ』〕


 ここで司馬さんがいわれるように、人間とは、もともとはじめから支え合って、助け合って生きているものだということが、お釈迦様が縁起法という言葉で明かにされた具体的な内容だと思います。

   このことを信國先生も次のようにいっておられます。


 人間は、それぞれ個人であるが、単なる個人として一人で生きることができるものではなく、「人と人との間」というものをもつことで、初めて人間として生きることのできる存在である。〔『信國淳選集』第六巻・自と他〕

 

 このように私たちは、もともとはじめから共に助け合って生きているのです。だから、共に助け合って生きることができた時、はじめて私たちは安心して、安定的に生きることができるのです。そして、実はこのことが、「浄土」という言葉で教えられていることなのです。

(元帯広大谷短期大学長・中川皓三郎)

 

 

 


過去1年分の通信録

「慈光」通信を読む(2017年11月号より)

「学校教育」と「家庭教育」…

 

 考えてみると、私は、家庭教育というものは言うて聞かせたり見せたりするものでないということに気がついたのでございます。


 学校教育は教壇がございまして、生徒の前で先生がいろいろ言うて聞かせるわけでございます。私も、私の母校の大学の授業を、週に一回だけ持っておりますので、学生の前でいろいろなことを、言うて聞かせるわけでございます。これを講義といいますが、そうしますと、それを聞いた学生が、一生懸命にノートをとるわけでございます。いわゆる学校教育は言うて聞かす教育でございます。あるいはまた、先生が模範を示すということがございますね。体操などは、みなそうです。して見せるのです。そうしますと、生徒がそれを見習うわけでございます。


 ところが、家庭教育というものは教壇がございません。だから、して見せる教育ではないと思うのでございます。そこに、また、大事なむつかしい意味もあるだろうと思います。(中略)


 ある時、私は自分の檀家へお参りしました。まだ、暑い時でございましたが、表から子供が、ダーッと走って入ってきまして、そしてこの、食卓の上にのっておりましたヤカンをでございます、番茶のさめたのが入っていたらしいんですが、それをガッとわしづかみにいたしまして、やにわにパッと、こうやったんでございます。


 ヤカンの口から飲んだわけです。そうしましたら、そこの奥さんが非常に恥ずかしがりまして、「これ、ご院さんの前で行儀が悪い。なんてことをお前はするの」と、言って怒りました。で、私はその時に、「ちょっと待った。ここの家で、誰かこうする人がおるはずだ」と言いましたら、お父ちゃんがやっぱり、やるのですね。お父ちゃんがこういうことでは困りますね。立派な教育でございます。家庭教育というのは、そういうものでございます。


 そこでたとえば、親鸞聖人の教えをいただいてみますと、「人を助けたかったら、まず、わが身が助かることだ」と、はっきり言うておられます。『歎異抄』の第四章に、まあ私は多少やさしく言い変えておりますので、この通りの言葉ではございませんけれども、聖人の仰る意味をいただいてみますと、「人を助けたいと思うたら、まず、わが身が助かることである」。こう、おっしゃいます。


 そういう点から、今のこの家庭教育を考えてみますと、子供を教育したかったら、まず親の私が正しい教えを受けることである。こういうことになります。そうすれば、それが自ずから言葉となって出ますし、また、行動となって現れるのでございます。それが、自ずから自然に子供を育てていく。教えることになるわけでございます。


 教えようと思って教えられるものではございません。教えようと思って教えるのは、これは学校教育でありまして、家庭教育はそんな心では、子供は教えられぬのでございます。親が正しく生きていく―間違った考えを持たずに、正しく生きていきますことが、それが自ずから子供を教育する。そういうことだと、最近、私は気がついたわけでございます。

(元教学研究所所長・仲野良俊)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年10月号より)

願わくば諸々の衆生と共に…

 

 私らの喜んでおるのは、考えてみると、自分だけの喜びです。自分の周囲に苦しんでおる人、悲しんでおる人、一杯いらっしゃいますけども、それに目を塞いで自分だけが喜んでおる。もっと大きく言いますと、日本の国は結構やと言いますけど、日本の経済繁栄のあふりを受けて、フィリピンの人やタイの人、マレーシアやらアジアの人々が、前よりも悲惨な生活に落ち込んでいらっしゃる、そういう例が沢山あります。ところが、我々はそういうことに皆目を塞いで「結構や、結構や」というて日本の国のことだけを喜んどる、そういう喜びは本当の喜びにはならない。


 西ドイツの偉い人が「日本は今のような調子でいくと、世界中にお友達になてくれる国が一つもなくなってしまうだろう」と言ってらっしゃいます。また、シンガポールの若い新聞記者で、日本に来られて十四年になられるル・パイチョンという方も「日本へ来て十四年になって、戦後の経済繁栄をになった日本の人々を見るけれども、今のような調子でいったら恐らく日本は世界中にだあれもお友達がいなくなる。自分だけが喜んでおるというそういうことになるんじゃないか。そのことが心配だ」と、おんなじことを言うとられます。


 そういう中で、私どもが親鸞聖人の教えにたまたまご縁があった、その親鸞聖人の教えというものは何かというと、真実の経は『大無量寿経』だと。その『大無量寿経』に如来さまの御本願が説かれております。その御本願というのは、『十方衆生欲生我国』です。「十方の衆生よ、一人残らず、皆我が国に共に生まれんと願うてくれ、願わしめずにはおかん」と。この「十方衆生」というのは具体的に言いますと、韓国の人、中国の人、フィリピンの人、その人々と共に一人も洩れなく、共に一つの世界を生きると言うことがないかぎり日本も救われない。そうですねえ。奥さんが悲しい思いをもっておられるのに、旦那さんだけが晩酌やってテレビ見て、結構や、ナンマンダブツ、言うとってもそりゃ本当の喜びになりません。そうでしょう、自分だけの喜びが大事なのでなくて、むしろ悲しみを共にするということの方がはるかに大事なのです。


 アジアの人々の悲しみを我々日本民族が同じ悲しみとして感ずる、そこに一つの世界がある。私どもはどうもそういうことを忘れてきたのではないか。十方衆生、生きとし生くるものが『願わくば諸々の衆生と共に』というところに、我も人も本当に充足し、満足する世界があるのではないか。そのことを、念仏一つとして、聞き開かれたのが親鸞聖人でございましょう。

(浄泉寺前住職・和田 稠)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年9月号より)

信  心 ~ 人生の真実の方向を見出す ~

 

 本当の願い、それは念仏において「願往生心(がんおうじようしん)」と教えられています。浄土へ往生しようとする願い、つまり天親菩薩のお言葉に従うならば「願生安楽国」ということであります。これは別に死にたいと思う心ではありません。人生を尽くし、苦悩の人生の中から、一足一足真実の世界に近づこうとする願いであります。真実を見出し、自分自身が真実になる道、信心は人間にこのような方向を与えるのです。


 人間が人間にとどまる限り方向はありません。都合の良いほうがいつでも方向でありましょう。昨日は隣の人と都合が良いから仲良くしていた。今日は喧嘩してしまった。都合が悪くなると今度は向かいの人と仲良くする。向かいが方向になります。明日はまた変わるかもしれません。このようにいつでも方向が変わるのであります。変わるのは本当の方向でない証拠でもありましょう。都合が良いならどこへでも行く。東も西も南も北もどこへでも行く、これならみんな方向であって、それは方向のないことになってしまいます。つまり、うろうろしている、右往左往という有様、こういうのを迷いというのであります。


 道に迷って方向を失った時には、どんな平坦な道でも足が前へ出ません。「ここを行ってはたして行けるだろうか」こんなことを考えたらもう足がすくんでしまいます。しかし、どんな険しい道であっても、ここを歩いてゆけば必ず到達できることが分かっていれば、道が険しければ険しいほど、勇気が出てくるものではないでしょうか。生活がどんな楽でも豊かでも、どんなに坦々とした道であっても、方向が与えられぬ時には、生き甲斐を感ずるはずはありません。生暖かな中で生あくびをかみ殺したような生活よりほかありません。しかし、人生の方向が一度決まった時には、それがどんなに厳しい苦しい生活であろうとも、生き甲斐を感じ、喜びを感じて力強く歩いていけるものであります。(中略)


 信心によって本当の世界と立つべき場所を見出し、本当に拝むべきもの、尊ぶべきものが明らかになり、どんな境遇であろうと状態であろうと、見失うことのない自分を発見し、人生の本当の方向が与えられ、ともすれば崩れんとする人間を本当に奮い立たせておおしく苦難の人生を歩ませるのであります。信心こそ正しく本当の人間を生む母体であるといえましょう。

(元教学研究所長・仲野良俊)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年8月号より)

他をとがめんとする心をとがめよ

 ― 清沢満之 ―

 

 仏の教えに「一水四見」の譬えがある。一つの水が、その生き方、その境遇によって、四通りに見られる譬えである。水は私たちに人間にとっては、まさしく水である。が、天人は瑠璃をもってかざられた大地と見、餓鬼はこの水でもって咽喉を焼く火と見、魚は住家とみる。


 これは一つの水を見るにも、その人の生き方、境遇によって違って見られることをいう。人に対しても、物に対しても、現象に対しても、境遇によって見方が変わってくる。従って、自分がこう見えたから、みんながそう思わねばならぬと強制することはいらない。なんでもない、これだけの道理がわからず、現実は自分の考えに固執し、主張して平和を乱している。


 他をとがめず心をとがめよといわれる。他とは、私たちが考えたもの一切をいう。その他は自分の考えた如くあるものでない。私たちのそれぞれの立場、境遇で考えた解釈が入っている。解釈された世界であり、人であり、物である。したがって、それに執われる必要はない。問わねばならぬ一点は、そのように現実をかたちづくる自分の心が、本当にあるべき境遇にいるかどうかだ。


 私たちの心のあり方をしめすもの、それが「地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天人」の六道である。その中、「人間」としてのあり方は、人生に苦、無常、不浄、を感じる時だといわれる。


 苦を感じる心は苦悩なき世界を、無常を感じる心は永遠のいのちを、けがれを知る心は清き心を願い求める。そこにこそ人間らしいあり方がある。私たちは、この心を失い、さまざまなことを考え、その世界に閉じこもって争いをおこしている。


 いま一度、人間らしさに帰ろう。そして他をとがめることなく、自らの心をとがめ、真に人間らしい生活をとりもどそう。

(玉永寺前住職・石川正生)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年7月号より)

一息一息のところにある命…

 

 『処処経』というお経があります。これは小さいお経で、また『四十二章経』というお経もあって同じことが説かれています。その中で、人間の命というものはいくばくの間か、どんな長さかということをお釈迦さまが比丘たちに問われます。それをある比丘は五十年ですかというのです。今日では平均寿命が七十年を超えていますが、お経の中では比丘が人命五十かという。その答えに対して、お釈迦さまは肯定されません。平均寿命はあくまで平均した寿命ですから、誰の寿命でもない。私の命は、ということになってくると明日がいえないようになってきます。五十年だ、あるいは二十年だ、あるいはそれ以下、一月だ、一週間だと。こういうふうに答えが分かれて出てくるのですが、どうしてもお釈迦さまはその人命はいくばくであるかという答えについて肯定されないのです。そして最後の比丘が「人命、呼吸の間に在り」といいます。人の命というのは、息を吸って吐く、その呼吸の間に在りというわけです。


 皆さんも、何か重い病気をすると、おのずからそういうことはわかるのです。私もそうでした。高い熱が出るとすぐに寝汗をかきます。シャツを換えるとまたすぐに汗をかいてくる。そうすると、この自分の命は明日まで持つかなあという思いになるものです。そして絶対安静ですから、寝転がっております。そのいつの間にやら呼吸する鼻の所へ指がいきました。「お前の命は」といって息を吸ってフーっと吐いて、もう「一息追がざれば千載に長く往く」(歎徳文)というもので、これで終わりだというわけです。そうすると、一息一息のところに命があるのだなと思われてきたわけです。


 今『処処経』に説かれるお釈迦さまの説法というのは、無常迅速ということを教えられる。人間の命は一息一息のところにあって無常迅速だと、そこに目が覚めたのでしょう。人生七十年だ、いや五十年だと、こういった時は外の話なのです。そういう噂をしているだけです。このごろテレビや新聞で老齢時代がやってきて、これから日本はどうなるのだと喧しくいわれています。しかしそれは命の尊さというものがわかればなんでもないのです。

(元大谷大学学長・松原祐善)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年6月号より)

念仏の上に開かれる尽十方の世界

 

 もともと、自分自身、仏法の光につつまれて当然の身として自負している者には、尽十方などということは、少しもありがたくはないのでしょう。自分の力を自負し、頼みとする者には尽十方ではなく、実は“尽一方”の世界こそがありがたいのです。


 たとえば、受験生にとって東京大学はあこがれの的でしょう。しかし、東大はまことに狭い門であって、志望者の中のほんの一部の者が入れるほかは、多くの者が無念の涙をのまなくてはならないのです。いうなれば、エリートという一方だけを尽くす尽一方の学校なのです。しかも実は、だからこそ、念願かなって東大に入れた者の感激、喜びというものがあるのです。これがもし、尽十方の学校、誰でもが入ることのできる学校であれば、入学しても、なんの感動もおこるはずがありません。あるいはまた、先日やっとの思いで新調した服を着て颯爽と街へ出たところ、向こうから同じ服を着た人がやってきてバッタリ顔を合わせ、ガックリしてしまうサザエさんを描いた漫画を見ましたが、私たちには大なり小なり、そのサザエさんと同じ気持ちがあるはずです。

 

 誰もまだ着ていないものを私は着ている、なかなか入れないところに私は入った、皆入りたがったのだけれど入れたのは私独りだ、そういっては喜び、有頂天になっているのです。いわゆるエリートの世界です。それはみな、尽十方の世界に対して云えば、尽一方の世界だと云うことができるかと思います。そして、エリートたちにとって、尽十方の世界など一向に面白くも、ありがたくもない世界なのです。少しでも自分の力を頼むところのある者には、尽十方などということは、歓びであるどころか、まことに無意味なのです。

 

 そのことから申しますと、尽十方の世界は、人間からあらゆるエリート意識を奪いとる世界だともいえます。自分より下の者を見てほくそ笑み、自分より上のものを見て妬み、口惜しがるような、そういう私の自意識を根底から破ってしまう世界なのです。

(元九州大谷短期大学長・宮城顗)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年5月号より)

自己への固執…

 

 会社のことが心配だという人がある。子供の将来が心配だという母もある。夫の身体が心配だという奥さんもあるだろう。しかしその奥には、「もしそうなったら私はどうなろう」という心配が深くかくれている。
 愛情は清らかであり、尊いものであるといわれる、なるほどそういう面もある。しかしもっと深く考えてみると、そういう清らかな尊いものの底に、とんでもないもの、自分への根強い関心がかくされておりはしないだろうか。可愛いさ余って憎さ百倍というのは、人間の愛情の悲しい真相を物語っているようである。愛はいくら余っても憎さになる筈はない。憎さになるのは、自己への関心、自己が否定されたことによる怒りではなかろうか。


 一切の事に心を配っている。しかしそれに先立って自分にも気のつかぬようなもっと深いところで、たえず自分に配慮している、心配している。言い換えると、あらゆることに対する配慮が成立つその根底に、自己への配慮が極めて根強くはたらいているということである。夫を愛するというが、夫において自己自身を愛している。子供を愛するというが、子供において自己自身を愛している。一切がここから考えられて受取られている。何を見ても何を聞いても何を考えても自分を離れることが出来ぬ。このように、自分を離れられない経験を仏教では「有漏(うろ)」とよんでいる。


 「有漏」というのは煩悩を離れられないということ、自己関心から離れられず、従って私たちの経験は自分中心、自分をかためようとする経験ばかりであるということである。

(元教学研究所長・仲野良俊)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年4月号より)

生死流転(しょうじるてん)…

 

 朝、目が覚めてから夜眠るまで、いや、もしかすると夢の中でも人間は、次から次へと問題に追っかけられているようであります。あれも何とかしなければならぬ、これも何とかせねばならぬ。生きているということは、問題から問題へと続いて、しばらくも止まぬということではないでしょうか。(中略)

 

 ようやく子供が学校を卒業した、やれやれという途端に問題が起こっています。息子に嫁をもらって家の中が調った、喜ぶ途端に他人が入ったということで問題が起こって参ります。つまり、解決が問題を呼び起こす、解決を生というなら、問題は死でありましょう。生死、あるようになったことが困る種になる、望んでできたことから悩みが始まる、そしてそれが際限がない、それを「生死流転(しょうじるてん)」というのであります。

 

 これはただ個人の場合だけではありません。人間全体の姿がそういうものであります。人間の力で人間の問題を解決しようというところに文化というものがありますが、どこまでいっても限がありません。農薬と害虫が追いかけっこをしている、バイキンと注射薬が、病気と薬が競争する、交通が発達して時間が短縮されたはずであるのにいよいよ忙しくなる、人間が頭脳をしぼって見出した原子力がかえって人間を脅かしている。こういうふうに、人間の力で人間の問題を解決しようとする立場には終わりがありません。

 

 これがつまり、流転ということ、どこまでいっても際限がない、これが人間世界の事実であります。仏教は人間の世界が人間の手で終わるというような、甘い夢を見ません。落ちついて正しく人生を見るなら、人間の世界に理想郷(ユートピア)が来るなどとは、むしろ人間のうぬぼれではないでしょうか。

 

 こういうことを言うと、「それでは人間に希望がないではないか」「希望がなければ人生は灰色で生きてゆけない」という人もあるでしょう。しかし、まちがった希望が果たしてどれだけの役割を果たすでしょうか。むしろそれは人間をあらぬ方向に追い立てたり、悲観させたりするだけであって、もっとまちがいのないところから本当の願いに目覚めさせようとするのが仏教であります。

(東本願寺リーフレット「本願」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年3月号より)

 ある会で一人の方が質問されたことがあります。その方の親しい縁者の方が癌で入院しておられて、その方が見舞いにいかれた時、しきりにその苦痛を訴えられたそうです。その時その方は、私がどれほど貴方のことを思っても、貴方の苦痛を私が代わって受けてあげるわけにはいかない。貴方の身の苦痛は貴方自身が受けてゆくほかない。だから、その苦痛を身に受けて念仏してください、そう言われたのだそうです。そうしたら、その患者さんは、貴方なんかもう早く帰ってくれと云われたそうです。でその方は、こういう時どうすれば念仏させられることができるのでしょうか、と問われれるのです。


 私自身もこの二年ほどの間に、若い友人を二人も癌で亡くしました。とくにその一人は私に会いたがってくれ、数時間をその友人の枕もとにすごしました。はげしい痛みと、それをおさえる座薬の効果でウトウト眠りとの間、「自分の体ひとつどうしようもないですね」と訴え、ただ座りつくしている私に、ふかい、求める目を向けていました。また別の友人は、言葉をなくして立っている私に、「なかなか言葉はでないものですね」と、私を見抜く厳しい言葉とともに、しかも表現してみようのないやさしさをたたえた目で私を見抜いていました。


 たしかに、他者の苦痛を代わってあげるわけにはいかないのです。しかしそのことは、代わってもらえない人にとって辛いことであるだけではない、代わることのできないものにとっても耐えがたい悲しさと重さをもった事実なのです。その他者に対して何かしてあげることがあるということは、その他者にとって嬉しいことである以上に、おそらくは、してあげられることでこちらが救われ、心安まることなのだと、身にしみて思い知らされたことでもあります。ただただ傍に立ちつくしているほかなにもしてあげられない、ただ見つめているばかりで、自分の無力を思いしらされているほかない、その事実はほとんど耐えがたいことであるのです。


 つまり、その病人にどうしたら念仏させることができるかということでない、その自分自身の身の事実に念仏が出るのかどうか、念仏せずにはおれない心があるのかどうかの問題なのです。私に生きていない念仏を他者にすすめ、念仏させることなど、できる道理がないのです。

(元九州大谷短期大学長・宮城顗)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年2月号より)

相より相たすけ合う世界…

 

 材木商のHさんがこんなことを言った。私たちの取引は全部手形です。しかし、こういう時代ですから、手形の中からいつ不渡りが出るかも知れない。一枚でも不渡りが出たら、私なんか倒産です。そういう不安があるのです。しかし、そういうことを気にしたら商売はできません。相手を信ずることでこの商売が成り立っているのです、と。


 少しの油断もならない商売の世界で、その商売が相手を信ずることから成り立っているということは意味の深いことです。考えて見ますと、だまされたということも、やはり信じあう世界の上にはじめて成り立つのです。


 人間の"いのち"の本来性は、お互いがお互いを成り立たせ、お互いがお互いに依ることで存在していると言われねばなりません。そこでは自分一人だけうまく生きようという考えは、"いのち"の本来性にそむくものとして拒否されております。相より相たすけ、他とともに生きることで、かえって自己そのものが生きることができるという世界が本来の"いのち"の世界です。そういう世界が、私たちの経験に先だって与えられておればこそ、こうして人間の世界が成り立っていることを忘れたくないものです。

(「今日のことば」より)

 

 

 

「慈光」通信を読む(2017年1月号より)

念仏といのり…


 かつてあるキリスト教の牧師さんが、いまは故人になられた東京大学教授であった常磐大定博士に、「あなた方の仏教には南無阿弥陀仏を称えるということがある。あれは尊いものですなァ」と、言われたことがあったそうである。その時、常磐博士は、「あなたの方にも、アーメンと称えるということがあるではありませんか」と言われると、「それはありますけれども、あれは牧師が祈祷の言葉の終わった時などに、みなが声をそろえて称えるもので、称えるところがチャンと決まっている。いわば儀式のようなものである。あなたの方の南無阿弥陀仏を称えるということは、あれはいつでもどこでも称えられるまことに結構なもので、私らの方にも、ああいうものがあるといいのですが…」と、しみじみとした言葉で言われたという。


 真宗の流れを汲む方々のうちにも、かつて考えたこともないことを言われたと思われる方があるかも知れません。勿体ないことですね。


 如来の本願は「いずれの行もおよびがたき」機を救うために、南無阿弥陀仏ひとつを御成就になって、私どもにお与え下さるのであります。その念仏はいかなる時、いかなる所でも、またどんな縁によってでも称えることができるようにとの御本願からあらわれて下さったのであります。なおそのうえ、称える人も男女貴賎老少善悪のへだてがないということは何とありがたいことではありませんか。


 「男女貴賎ことごとく 弥陀の名号称するに 行住座臥もえらばれず 時処諸縁もさわりなし」(高僧和讃)

 

 キリスト教に称えるものがないということは、キリスト教の神さまにはお念仏がないということでしょう。われわれには「称名必得生」の願いがかけられてあるということで、簡単なことではありません。まことにありがたいことと改めていただかねばなりますまい。

(難波別院バックナンバーより)

 

 

 

光寿無量 ~新年のご挨拶~

 新年明けましておめでとうございます。今年も慈光のもとに新しい年を迎えさせていただきましたことを、皆様と共にお慶び申し上げます。

 

 昨年も、国の内外共に心の痛む出来事が沢山起こりました。地震をはじめとする温暖化による異常気象や、その災害。国際社会ではナショナリズムが台頭し、国と国、民族と民族、宗教と宗教が互いにエゴイズムを主張し、敵対し合って、紛争・テロ・戦争の悲惨な状況が、日々深刻化しています。日本も、その国際情勢に動かされて、年々、軍事費が増大し、今年度は教育機関への、軍事研究助成費を一挙に18倍に増やすなど、戦争する国へと着実に向かっていることは憂うるべきことです。戦争を目的としたいかなる研究も、開発も、商法も、人類が真に願う平和を脅かし、壊していくものであって、容認すべきことではありません。

 

 また、毎日のように世界各地で起こるイスラム過激派による自爆行為は、現代社会が生み出す格差社会への抵抗であり、未来に絶望し、生きる意味を見失った若者の自暴自棄がテロへと追いやっているのではないでしょうか。それは裏を返せば、真に人間が問われ、真に人間になるべき時機、チャンスが到来していることでもあります。人類のいのちの底を流れ、いつでも、どこでも、いかなる生き方をしている人々の中にも流れ、つきあげている根源のいのちの要求、「弥陀の本願」が今の私たち一人ひとりに喚びかけています。

 

 現代の様々な問題の根は、すべて人間の問題であり、真に人間になる「根源要求」を問い、聞くべき時であり、機(チャンス)であることを露しています。宗祖親鸞聖人に御縁をいただいた私たちから率先して、「聞法生活を第一」として、人間に生まれた意義と生きる喜びを見出し、今年も心新たに、皆様と共に歩ませていただきたいと存じます。合掌

(当院住職)