大阪あべの即応寺

今月のおはなし

「慈光」通信を読む(2025年10月号より)

 

 

日常生活において、真宗門徒として行わねばならない、つとめというようなものはありませんか?

 

おつとめといいますから、方式はできるできないにかかわらず、勤行はなすべきです。お内仏というものがありますから、朝夕の礼拝は重要であります。幼い子でも親たちに「おはよう」「おやすみ」という挨拶が大切であると同じように、お内仏といってもやはり親たちなのですから、朝夕の礼拝くらいは当然しなければなりません。ある家庭では礼拝してこないとご飯を食べさせないという習慣もあります。ずいぶん。無理のようですが、それはやらない人にはそう感じるかも知れませんが、行っている人ですと非常に大きな意味のあることだと思います。

 

ちょっと腹が立って怒り散らしたいと思う時、ふとお内仏に灯のついているのを見て、ハッと思いとどまったというようなことはずいぶんあります。やはり、あそこに座るということは、心を落ち着け、心を和らげるのでありますから、お内仏とはよくいったものです。礼拝は五念門の一つですから、念仏といってむずかしいようでしたら、礼拝といってよいと思います。念仏とは拝む心です。敬虔感情というものは、朝夕礼拝するということで、出てくるのであります。

 

社会的に考えますと、真宗門徒だけは縁起をかつがないということ。会合の場合なども時間を守ること。会食の時でも、真宗門徒らしさがあってほしいと思います。また、生活も贅沢なことをしないということも思います。

 

なお、当相敬愛ということがあります。夫婦の愛も敬う心がなければ純愛になりません。愛は「いとおしむ」ということであるから、尊ぶということであります。やはり、夫婦も共に敬い、、敬語を使うことであってもよいと思います。夫婦だけでなく、親子でも敬語を使うということがあってもよいと思います。愛は人間愛とか、ヒューマニズムとかいって大切にせられていますが、それには敬うというものがともなわねばなりません。その敬うことの根源は朝夕の礼拝というものによって養成されるのであります。

(大谷大学名誉教授・金子大栄)