大阪あべの即応寺

親鸞聖人って、どんな人?

~青年期編~

法然上人との出遇い

 

 今から750年前、親鸞聖人は京都にお生まれになりました。この頃、日本は平家の全盛期で、戦乱・疫病・飢饉が続くといった激動の時代でした。 

 

 9歳の時、親鸞聖人は後の天台座主・慈円のもとで出家し、比叡山での修行に励んでゆきます。そこでの修行とは煩悩を断って悟りを得るという険しい修道生活でした。しかし、どれだけ修行や学問に励んでも、悟りを開く道を見出すことはできなかったのです。 

 

 「自分が求めるべき本当の救いとは何か?」

 「その救いは本当に比叡山にあるのか?」

 

 そんな親鸞聖人の20年にも及ぶ苦悶求道の日々は、やがて法然上人との出会いへと促していくことになります。

 


吉水で出会った人びと

 

 法然上人がおられた吉水の草案では、年齢や性別、身分を超えて、大勢の方々がみんなお念仏の教えの中で、自分自身の“輝き”を取り戻していました。 

 

 みんな阿弥陀如来の智慧の光のもとで、農民であっても商人であっても、権力もなくお金もない人たちであっても、誰とも変わる必要のない自分自身として堂々と生きておられる人びとの姿を御覧になり、親鸞聖人は感動されたのでした。

 

 「ここにおられる人たちは、みんな『この私に生まれてきて良かった』という所に立って、誰とも比べる必要がない自分自身を生きておられる」

 「みんな一人一人としてこのままの自分で十分だという世界を生きておられる」。

 

  そうした人々に会われた親鸞聖人は「ああ、自分の救いは比叡山にはない」「私の求める世界はこの人たちの中にある」といって、20年も過ごされた比叡山での修道生活と決別してゆかれるのでした。

 


法然上人を通して出遇った念仏の教え

 

 吉水の草案で、法然上人が説かれていた念仏の教えは「煩悩をもったその身のままでよい。ただ念仏して阿弥陀仏にたすけられなさい」というものでした。 

 

 これまでいつも「今のままの自分では駄目だからもっと立派な違う自分にならなければならない」と思い込んでいた親鸞聖人にとって、煩悩の身のままで阿弥陀仏の本願に助けられていくという教えは衝撃でした。

 

 それは、比叡山でのような自分の努力で自分が助かってゆく自力の仏道ではなく、仏様のほうから建てられた本願に目覚める者となって、誰とも比べる必要のない自分自身の本来性を取り戻してゆくという“他力の仏道”であったからです。

 

  “人間はいつも自力の心で人と比べて苦しんだり、良いとか悪いとか言い合ってお互いに傷つけ合って生きている”

 

  こうした人間が持っている悲しさを、本願の教えによってはじめて照らされた親鸞聖人は、 “自分(自力)の中に頼りになるものはなかった”と深く頭を下げられ、「凡夫よ」と呼びかける仏の智慧に目覚めてゆく“本願を生きる身”へと転じてゆかれたのでした。

 


《南無阿弥陀仏の伝統》

私たちにまで届けられた念仏の教え