念仏者は無碍の一道なり ―親鸞―
ある日の葬儀・火葬場からの帰り道、こんなやりとりを耳にしました。
喪 主「運転手さん、できれば来た道とは別の道で帰って下さい」
運転手「別の道?」
喪 主「念の為、亡くなった夫が道を憶えて家に帰って来ないように」
つい先程まで涙ながらに別れを惜しんでいた喪主でしたが、いざ御主人が亡くなるや、帰り道に目印を残すどころか“道を違えるように”との相談だったのです。思わず運転手さんも「まさか」と前置きをしつつ、「でも帰って来られたら結構な話じゃないですか」と応えると、喪主は「縁起でもない」と一蹴。それとこれとは話は別なのだそうです。
とかく世の中がこれほど進んだ時代に、今もこのような「迷信」に心落ち着かぬ人が多いとは、何ゆえのことでしょう。天寿を全うした尊い家族の死ですら災いの種となろうものなら塩を撒く。これを人間の弱さと言うのなら、その弱みの元を「聞法」によって明らかにする他に、この不安から脱れるすべはないのでしょう。
「無碍(むげ)」とは、どのような「碍り(さわり)」《逆境や不都合》にも妨げられず、如何なる災難をも「受けて果たす」との意。仏の智慧によって、この人生に真の主体性を取り戻してゆく念仏者の積極的生涯が言い当てられています。自我の妄執に振り回されず、あらゆる迷信から解放される“自在の明るさ”が開かれる道を、親鸞聖人は念仏の教えとの出会いから聞き取っておられるのです。
(即応寺住職・藤井真隆)
癒(なお)る力と癒(なお)す力
ある医学者は病気について、癒る力と癒す力というものがあるといっております。癒る力は天分でそなわっているもの、癒す力は医者の力であります。医者は癒すだけしか考えないが、癒る力は病人そのものにあるはずです。ですから、癒る力がなくなってしまえば、どれだけ癒す力があってもだめだということであります。因縁ということでいいますと、癒る力は「因」で、癒す力は「縁」であります。
ところが、病気が癒るとか癒らないとかいう人は、その癒す力だけを考えて、癒る力を忘れているのではないかと思います。ですから、信心ということによって癒る力にたちかえっていく。癒る力にたちかえれば、病気というものは癒る力があるかないかの一つの訓練にほかならないのであります。病めば病むほど、長生きしてきたことも、ふりかえれば訓練を積んできたという感じがします。ですから、癒る力があれば癒していただけるということで、癒す力は医者にまかして、お与えにあずかった癒る力は粗末にしないようにということが真宗的であると思います。
このように病むということも自分の生命に対する自覚をうながすものになりますから、病は苦しいに違いないが、その病むことに「生」の意味を受け取っていく道があるのだと思うのです。
(大谷大学名誉教授・金子 大栄)
念仏者は無碍の一道なり
―親鸞―
親鸞聖人は、「念仏者は、無碍の一道なり」(『歎異抄』)とおっしゃいました。「碍」は、「さまたげ」とか「とらわれ」「さしつかえ」の意味です。つまりは、「不都合」「不如意」です。「無碍」とは、一切の障害物が取り除かれて、何ものにも邪魔されずに、思いどおりに進んでいけるということでしょうか。
そうではありません。どこまで行っても、人生は不如意、つまり、思い通りにはなりません。「無碍」とは、「碍(不都合)」であるとかないとかという見方・発想から解放されることです。出会いを好都合・不都合と分けて、好都合は受け入れ不都合は避けるという、自分中心の判断や進み方でなく、出会うすべてをごまかさず、大事なことと受け入れる。すぐには分からなくても、出会ったことには意味があり、教えられ、考えさせられます。
阿弥陀様の本願に安心して、念仏とともに歩む者には、出会うすべてが大事なことなのです。確かに「私の都合」から見れば、受け入れたくないことが多くあるでしょう。しかし、縁次第でどんなことも起こるのです。その起こったこと(現実)を、誤魔化したり顔を背けたりせず、事実と認め、受け止め歩いていく。それが「あきらめる」、すなわち、「明らかに見る」、たいへん大事な念仏生活の歩みといえるのでしょう。
(元大谷中高等学校長・真城義麿)
妻がいのちをかけて教えてくれたこと
2025年8月21日が、妻の三回忌でした。白血病の再発で死を宣告され、亡くなるまでの生活を共にしていく中で、彼女から大切なことを教えられました。
最初の二ヶ月半は、元気で「なぜ白血病になったの」と泣きながら親鸞聖人の教えを聞法していました。次の二ヶ月は、元気もなくなり車いすで、私に「ごめんね」と謝ってばかりいました。最後の一ヶ月半は寝たきりで、白血病を含め自分のすべてを受け入れて、仏さまのような顔で私に「ありがとう」と言って、念仏していました。その過程によって彼女自身が大きく変わっていったのです。
赤ちゃんの時は、私も他人もない無我の世界を、誰もが生かされていました。一切の人は仏さまの世界が本国であり、出発点です。しかし4歳くらいで自我が生まれると、すべてを〝私の世界〟に変えて、仏さまの世界を忘れ、人間独特の苦しみを生きるようになります。そして、誰しも娑婆の縁尽きる時、本来の仏さまの世界に還っていくのです。
私は、妻が光り輝く仏さまの世界に還ったことを、いのちの底からうれしく思いました。それは何よりも親鸞聖人のお念仏の教えがあったからです。私も妻も南無阿弥陀仏のいのちを生きようとしたからです。生きることも死ぬことも、南無阿弥陀仏の中にあるということを、妻は身をもって私に教えてくれました。
(九州教区田川組昭光寺・延塚知道)
無辺光(むへんこう)
「正信偈」の11行目から「普く、無量・無辺光・無碍・無対・光炎王・清浄、歓喜、智慧光・不断・難思・無称光・超日月光を放ちて、塵刹を照らす。一切の群生、光照を蒙る」とあります。阿弥陀如来の智慧と慈悲のはたらきが、どのように私たちのところまで届くのかが、十二の光で表されています。その二つ目が「無辺光」です。一切の世界のいのちをあまねく照らす無辺際の光明です。
私たちは、いつも「自分の都合」という物差しで、出会うすべてを分けて考えます。得か損か、有利か不利か、味方か敵か、身内か他人か、上位か下位か、好きか嫌いか、いくらでもありますね。商売では「損益分岐点」があります。その境目が「辺際」です。そういう境界線で分けるということを超越された光が「無辺光」です。
出会ったものも、ことも、人も、私の都合で迎え・退ける。そういう私たちの見方・考え方・進み方が、「無辺」という言葉で問われます。分けることで、大切な様々に会えないままになっていないか。
かつてブータン王国の前国王ワンチュク4世が、「我が国に殺虫剤がないのは、貧しいからではなく、殺されてもいい虫がいないからです」と仰ったのを聞いたことがあります。
(元大谷中高等学校長・真城義麿)
今日という「いのち」をいただく
私達は、この永遠のいのち(如来のいのち)を頂いてこの世に生まれいで、何十年間かの娑婆の生活を送った後、名残りを惜しみながら、また元のいのちの世界に帰っていくのですね。つまり、永遠のいのちの世界を背景にして、今日のひと日のいのちを生きるのですね。
駒沢大学の丹羽小弥太先生の歌に、
きょうもまた 朝の珈琲のみにけり
ひと日重ねし 事の嬉しさ
というのがあります。
朝、目がさめてみれば、今日もまた生命を賜っていた。ありがたいことである。静かに頂く一杯の珈琲のおいしさ、かたじけなさ―
そこには、今日のひと日のいのちを頂いて生きることの喜びと、いづれは永遠のいのちの世界に帰して頂く安らかさとが歌われています。静かな謝念に満ちた歌です。
(元長崎県教育長・竹下哲)
日常生活において、真宗門徒として行わねばならない、つとめというようなものはありませんか?
おつとめといいますから、方式はできるできないにかかわらず、勤行はなすべきです。お内仏というものがありますから、朝夕の礼拝は重要であります。幼い子でも親たちに「おはよう」「おやすみ」という挨拶が大切であると同じように、お内仏といってもやはり親たちなのですから、朝夕の礼拝くらいは当然しなければなりません。ある家庭では礼拝してこないとご飯を食べさせないという習慣もあります。ずいぶん。無理のようですが、それはやらない人にはそう感じるかも知れませんが、行っている人ですと非常に大きな意味のあることだと思います。
ちょっと腹が立って怒り散らしたいと思う時、ふとお内仏に灯のついているのを見て、ハッと思いとどまったというようなことはずいぶんあります。やはり、あそこに座るということは、心を落ち着け、心を和らげるのでありますから、お内仏とはよくいったものです。礼拝は五念門の一つですから、念仏といってむずかしいようでしたら、礼拝といってよいと思います。念仏とは拝む心です。敬虔感情というものは、朝夕礼拝するということで、出てくるのであります。
社会的に考えますと、真宗門徒だけは縁起をかつがないということ。会合の場合なども時間を守ること。会食の時でも、真宗門徒らしさがあってほしいと思います。また、生活も贅沢なことをしないということも思います。
なお、当相敬愛ということがあります。夫婦の愛も敬う心がなければ純愛になりません。愛は「いとおしむ」ということであるから、尊ぶということであります。やはり、夫婦も共に敬い、、敬語を使うことであってもよいと思います。夫婦だけでなく、親子でも敬語を使うということがあってもよいと思います。愛は人間愛とか、ヒューマニズムとかいって大切にせられていますが、それには敬うというものがともなわねばなりません。その敬うことの根源は朝夕の礼拝というものによって養成されるのであります。
(大谷大学名誉教授・金子大栄)
私の“中心”の願い…
自分の居場所は無意味に思えて、他人の身の上がよく見える、これが人間の立場である。この思いによってどれだけさまよい続けてきたことだろう。いや、これからも繰り返していくことかもわからない。私たちは、現実という言葉は知っているけれど、実際には現実とはほど遠いところに立っている。
“現”とは、時間から言えば“今”ということであり、空間的には“ここ”ということである。今、ここ、それが現実だとはわかっていても、さて我われの生活となると、今はつまらん、いつか、ここは無意味で、どこかにすばらしい天地がある、という思いによって生きている。
子供が小さいと、この子が大きくなったら、と夢を見る。さて、その子が大きくなったらどうだろう。素直に返事一つさえしてくれない大人ぶったわが子を見ると、子供は小さい時の方が素直でいい、とかえってもこない過去をなつかしんで、やはり今は駄目ということになる。
こうしたすがたを、仏教は「流転」と教えてくださった。
現実をもたないとは、「自己」をもたないということである。我われの心の底の願いに目を向けると、どんなに他人の身の上がよく見えても、本気でその人になりたいとはまったく思わぬものである。
私の中心の願いは、私自身になりたい、と願っているのである。自己自身に。
(島根県光善寺・大森忍)
函蓋相稱(かんがいそうしょう)
―「相応」は、たとえば函(はこ)と蓋(ふた)と
相(あ)い稱(かな)えるがごとしとなり(曇鸞大師)―
「伝言ゲーム」という遊びをご存知でしょうか?数人のグループになって、順番にあるメッセージを伝えていき、その正確性を競うゲームです。大人であっても、最後の人のところでは、はじめの物と全く違ったものになったりします。
これは人間の聞き間違いを利用した遊びですが、仏教ではこのことを「同聴異聞」(どうちょういもん)と言って、自分の都合で聞く人間の姿を言い当てています。同じ事を聞きながら、それぞれの都合(自我)で聞くために、全く異なった受け取りをしている、と。言葉を放つ側の思いや願いと、受け取る側の思いがぴたりと合った様を、箱の上下に譬えて、「凾蓋相稱」と曇鸞大師は表現しました。
日頃を振り返ってみれば、相手が放った言葉を私たちは本当に受け止められているでしょうか。メールやラインでの会話が主流になりつつあるこのご時勢、言葉だけではなく、表情、声のトーン、醸し出す雰囲気、色々なものを感じて、相手の大切な言葉を受け止めたいものです。
ひょっとして、役に立つ、立たないだけで、相手の言葉、聞いていませんか?
(東本願寺宗務所企画調整局・橋本 真)
長寝大夢(ちょうしんだいむ)
~人間は長く大きな夢に寝る~
―曇鸞大師の言葉―
人間はいろんなものに迷うのですが、一番深く迷うのは、自分に対する信頼というものなのです。「理想主義」というものの根底にあるものは「自己信頼」です。
そして、その「自己信頼」というものは、どこまでも「大夢」、つまり、自分に夢を見ているのです。
人にかけた夢というものはすぐに覚め、破れるのですが、自分にかけた夢というのは、なかなか自分では覚めないのです。まさに「長寝大夢」です。
自分の人生を振り返ってみれば、ずっと自分に夢を見続けてきたのです。自分に夢を見続けてきたがために、人生の本当のことを見落としてきたのです。
(元九州大谷短期大学長・宮城顗)
病気
医者の見立てが悪い。
生活習慣が悪い。
ストレスがたまっていた。
予防を怠った。
検査を受けていなかった。
――そう言われるかもしれない。
しかし、病に倒れたのは、自分がこの身を生きていたからだ。自分がこの世に生を受け、この身体をもって生きていなければ、
病にも出あわなかったのだ。病にかかったことについて、私には病そのものと同じように「責任」があるのだ。
昔の人は、病を「前生からの因縁」だと言い、 「身体を借りている」とまで言った。それは、どこまでも自分のうちに「因」を見ようとした者の言葉である。
因を正しく見つめることのできる者だけが、病を「敵」でも「不幸」でもなく、自分の生の一部として受けとめていけるのである。
「因」を我が内に見ることができたとき、初めて、どのような病の只中にあっても、その現実をも、自らの人生として引き受けてゆくことができ、そこに自己のやすらぎを見いだすことができるのである。