即応寺 今月のおはなし

「慈光」通信を読む(2021年11月号より)

 

 

心中をあらためんとまでは、思う人あれども、

信をとらんと、思う人なきなり。

―「蓮如上人御一代記聞書」―

   

 先日、ある座談会で「こうしてお寺で話を聞いてるうちは、心も落ち着いて、自分は罪深いなあ、誰も恨むことはない、自分が悪いのだから自分の心を改めりゃすむ話だと思うんだが…でも、うちへ帰ったら、もうあかん。腹の立て通し、煩悩の虜ですわ。まぁ、こんな調子ですから、仏法を何度聞いていても同じ事、あきまへんわ」と。

 

 よく耳にする嘆息だが、こうした修養的な聞法の仕方に対して、蓮如上人という方は、的確に教えを聞く“的(まと)”を教え続けてゆかれたのであった。死ぬまで煩悩は消えることはないと言われる私たちの心。それを改めようとすることよりも、何よりも「信心」を得ることが肝心なのだと。

 

 「信心」とは“自覚”を表す言葉。仏の智慧に照らされて、自分自身の本当のすがたを自覚することだ。それはいつも“自分は間違いない”という所に立ち、他人を責めつづけて生きる罪深い私自身の発見である。と同時に、その私たちの生命の奥底に、今現に私を支えて働く無限なるいのちの世界(無量寿)、他力の働きを直観することでもある。そこに本当の帰依処を見出し、今まで見えなかった足下のいのちの世界がはじめて開けてくるのだろう。

 

 ある時、蓮如上人は廊下で紙切れを拾うや、「仏法領のものをあだにするかや(一切のものは全て仏の世界にあるもの)」と言って、物や人との出会いなど、あらゆることを粗末にしてはならないと周囲の人にそう諭したそうだ。

(「同朋選書」より)