本当の供養とは…
先祖から賜ったこの身が、ただごとではない。この身というものがただごとではない命だというその驚き、歓びです。一言でいえば、自分自身に感動する、自分の人生に感動する、そういうことがあって、はじめて供養になるのでしょう。それがなかったら、結局は形だけで終わる。先祖供養といっても、何か心に区切りをつけて、これでやれやれ、気が晴れましたということで終わるのでしょう。
そういうただごとでない命という目覚めにおいて、その命を大事に生きる。そういう歩みとして、私に真実の法を求め、聞かしめ、「聞法」(仏法を聞く姿勢)へと促す存在として先祖が受け止められた時、その先祖は諸仏となるのでございます。諸仏というのは、私をして聞法へと押し出し、そしてその歩みを護り念じてくださる、そういう徳において諸仏というわけです。
ですから、私が聞法者になる時に、先祖は諸仏になるわけですね。どれだけ立派な供養をしても、自分のいのちを粗末に生きているならば、それは供養でもなんでもない。そういうことを思います。
(元九州大谷短期大学長・宮城顗)