大阪あべの即応寺

今月のおはなし

「慈光」通信を読む(2024年6月号より)

 

 

譬えば、人ありて西に向かいて

       行かんと欲するに百千の里ならん  -善導大師-

 

この地球上の生物のうちで、人間ほど奇妙なものはないでしょう。この間も、ジェット機が墜落して、133人の人命が失われました。自分がこしらえたもので自分が殺されるという矛盾は、他の生き物には見られません。鳥を見れば空を飛びたがり、魚を見れば水をくぐりたがり、そのためにわざわざ不自由な生活をも我慢する。他の生物はお腹が満つれば眠るだけですが、人間はお腹が一杯になれば、眠るだけで満足できず、退屈で生きておれないのかも知れません。

 

一体、人間とは何であろう。動物の一種と片づけられていますが、それにしても変わった動物であります。『譬えば、人ありて西に向かいて行かんと欲するに』とは、動物として何の疑いも持たずに生きていたものが、何のために生きているのか、何を目指して生きてゆくのか、心の内部から問いが込み上げてきたことをいうのであります。そういう所から振り返ってみると、人間とは親子・夫婦・兄弟・親戚・友人等々とつらなって生きている、もっとも悩み多い存在であったのでした。愛し憎しみ泣き笑いつつ、ずるずる黒闇の深淵に引きづり込まれているのです。

 

誰も自分をどうすることもできない。その無力な自分を頼ってすがりつづける周囲、その自分もまた他のものにしがみつきつつ生きているよりほかない。こうした我が身の心の姿に気づく時、どうかして、力強い足場がほしい、どうしたら力強く生きられるかという願いが、同時に動いてくるのであります。気がつかない時には別に苦悶はなかったが、気がついてみると、これは新しい苦しみであります。

 

しかし、元の苦のない所に帰ろうとは思えない。苦しいけれども捨てないで、光を求めて進む以外に道はない。思えば、人とは真実の光を求めて彷徨う久遠の旅人であったのでした。『譬えば人ありて西に向かいて行かんと欲するに』とは、人の人たる意味を述べている声であります。

(元教学研究所長・蓬茨祖運)