あべの即応寺 今月のお話~バックナンバー~

「慈光」通信を読む(2023年4月号より)

  

 

盛衰の法則

 

ものが栄えたとき、栄えたと同じ理由によって衰えることがある。たとえば、短かいスカートがはやりだすと、短かいということで、それがとてもすばらしく見えて、いよいよ流行していく。しかし、いつのまにか短かいという理由で、見にくくなって、流行はしぜんに消えていく。どうしたことだろう。栄えたと同じ理由で衰えるということは。

 

スカートの流行ぐらいはどうだっていいが、優しい良い人だと思って結婚した妻が、やさしいばかりで、どうも物足りないということになったらどうか。恐ろしいことだが私どもは「仏の顔も三度」と言っている身である。私どもは永久不変というものを知らぬ人間である。

 

私どもは、なぜ衰えたかを常にたずねることも大切だ。しかしまた、いくらたずねてみても、最後は、永久不変を知ることのできない人間であることに気をつけることが必要なのだろう。

 

盛衰の法則を探し求めるために、歴史学や哲学という学問がある。いくら見つけても自分の身のやり場のないとき、その自分を仏に見出されるという、教え(仏教)というものがある。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年3月号より)

  

 

冷凍人間

 

医学の進歩は実にめざましい。聞けば年を取らぬ方法ができるそうだ。

 

これは、とても涼しい方法で、簡単に言うと冷凍になっていただければよいのである。もうこれ以上、年を取りたくない人には、お望みの期間だけ冷凍機の中へ入っていただく。すると、蛙や熊が冬眠するように、人間もその間冬眠できるのだそうだ。

 

二十歳の青年が、五十年間、冬眠用冷凍機に入ったとする。すると、そこから出てきた時、友だちはみな七十歳の老人になっているのに、自分はまだ二十歳の若さのままというわけだ。だから、五十年間、年を取らなかったことになる。しかし、長い間、冬眠した人が世の中へ出てきておどろくことは、世の中がすっかり変わってしまっていることであろう。

 

その人はいきなり見知らぬ世界へ投げ出されたわけである。その人は、時代にとり残されたあわれむべき古人になりはててしまっていることに気がつくだろう。その人は、年を取るまいとして、かえって年を取ってしまったことになる。

 

大切なことは五十年後のことではなく、現在いかに充実した生活を送るかということである。現在をおろそかにせず、与えられた生涯を素直に生きていくことが大切なのであって、見かけだけ、年を取らないでいてもだめだ。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年2月号より)

  

 

真のモラリストとして

 

あなたも自分で判断できないもの、くらくてもやもやしているもの、そういうものを心にもっておられると思うのですが、そういうものを別の名目ですっぱり斬り捨ててしまうのは、本当のモラリスト的な態度ではないと思います。

 

自分の心の弱い点を自分で明確に意識する、そうした態度を続けることが、むしろ道徳的な人間のとるべきみちではないかという気がします。自分の弱点をよくわきまえている人でしたら、他人に対しても寛容でしょうし、また相手に対して残酷になったり、味方に必要以上に甘くなるというなこともなく、はっきり人間というものをわきまえていけるんじゃないでしょうか。

 

したがって、次代をになう若い僕たちが本当に大人らしくやらなければならないことは、自分の弱い側面、不安な側面を斬り捨てずに、むしろそういうものに眼を開いて、具体的に自分を観察していくことではないかと思います。

 

こういう真のモラリストとしての態度が基本的にそなわっておりさえすれば、どんなちがった立場にいる人とも、おなじ次元で話し合い、理解し合えることができるのではないかと考えるのです。

(大江健三郎「なかま」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年1月号より)

  

 

大切なこと

 

何をするかが私の問題ではない、どうするのかが

私の問題である。いかなる人もその日常の茶飯事について大した別があるのではない。どんな人もみな飯を食い、茶を飲みするのだ。それをせぬ人はない。することは同じでも、それをする心はみなそれぞれ異なる。そしてそれは、みなおのおの自由である。私にまかされたことである。

一杯の飯に頭が下がるのも、山海の珍味に不足のあるのも、みなおのおののこころである。飯を食うのが悪いのでも、良いのでもない。どういただくかが私どもの与えられた仕事である。宗教的生活といっても、私ども凡人には別の生活形式があるのではない。

 

すべては、生活態度、生活する心根にかかっている。われわれはそのすがたをみて心根を省みようとしないのが、悲しむべく、いとおしむべきは、その心根ではないか。そこにうるおいのある生活と、味わいなき涸渇した生活とのわかれめがある。要するに、道徳といい宗教といおうとも、その心情の枯れたものが何であるのか。

 

宗教も道徳もしらぬこの身ゆえ、一杯の水のすてよう、一碗の飯のいただきよう、その心根が私どもの一大事である。                     (「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2022年12月号より)

  

 

虚仮不実のわが身にて

清浄の心もさらになし

-親鸞「愚禿悲嘆述懐和讃」-

 

夫は、衰弱が目立ってきたある日、力のない低い声で言うのだった。

 

「よう看病してくれたなあ。俺がガンに取りつかれて、よかったと思うよ。お前がガンだったら、こんなによう看病できんわ」と。業を素直に背負い、あの世に旅立つ夫の気持ちを思った。そして、奥さんは、人間の思いというものは、必ず自分を計算に入れるものだとも思った。同時に、そうした自分の心のすがたにも気づいて、ハッとしたという。

 

夫の死ーそれは、当然に月給のあてがなくなることだ。「その後」の暮らしを、どうしたらよいのか。夫の死を前にして、不謹慎にもそんなことを考えてしまう自分であった。

 

「そういう自分のすがたが、よく見えるようになったのも、仏法のおかげです。また、こんなこと、平気で人さまに言えるのも……」と。

 

その奥さんは、いつも煩悩具足の凡夫の自覚に立って聞法されていた。それが、阿弥陀仏に出遇っている証(あかし)だと、私たちは語りあったことであった。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2022年11月号より)

 

 

自分のうちに足るを求めずして…

他人に従うは、瞋恚(怒り)の源なり。

-清沢満之師・語録

 

「他人に従う」というのは、他人をアテにしての生き方のこと。こちらの思うようになってくれれば文句はないが、さもないと腹が立つのがオチだというわけである。

 

ある日、こんなことがあった。「もう、おやじさん、いい加減にしてくれ。泣きごとだったらもう聞きたくない。」 という息子の拒絶の返事。思わずカッとした。寝つかれないままに考えこみ、そのうちに清沢師のことばが思い出されてきた。息子に、ああしてほしい、こうしてほしいと用事を頼むのに、わが老衰のことを理由に弱音を並べたてていたのである。 あげくの果てに返ってきたのが以上のことばだ。心穏やかではなかった。だが、他人をアテにするのは怒りの一番の元で、問題はアテにするこちらの側にあったのだ。

 

思えば先日、主治医に「年にはかないません」と言った時、先生に「引っ込み思案は、いけません」と言われたばかりだ。しかも私自身の内には「如来より賜ったいのち」が、まだまだその用をはたすのに十分残っているではないか。― 私の心は平静になっていった。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2022年10月号より)

 

 

花びらは散っても、花は散らない

- 金子大榮師・語録 -

 

私たちは「花が散る」といっているので、はじめ金子大榮師の言葉に出会った時は、少しとまどった。だれかの言葉「なんじら、眼にたぶらかされるな」とあったが、それは“もの”を見るには浅く見ないで、もっと深く広く見きわめよ―ということであろう。

 

花を形成していた花びらは、その役目を終わって散るのである。しかし、花を花たらしめていたものは、まだ葉に、幹に、根っこにあって、つづいて活動しているのである。「花は散らない」というのを「花のいのちは散らない」とすると、よくわかると思う。

 

たとえ、その樹木自体が枯れ朽ちても、その樹木を樹木たらしめていたいのちは、不生不滅であって、宇宙全体にはたらきつづけているのである。これを仏教では「法身(ほっしん)」という。

 

それを親鸞聖人は、無色無形の無上仏=「自然(じねん)」といわれた。(『末燈紗』)

 

花を・樹木を、そうあらしめていた根源のいのちは永遠不変だ。人間もみんな「花びら」のように、役目を果たして散るのである。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2022年9月号より)

 

 

無限大悲に乗托したるものは、

真の自由を得るなり。

清沢満之『精神主義と他力』趣意

 

 

御門徒のYさんは、娘さんの婚家に同居している。七年前に妻を亡くし、大阪でアパートの一人暮らし、話し相手もなかった。ある日、心臓発作をおこし、医師から「一人暮らしは精神的によくない」と言われ、娘の家に同居したわけ。

 

ある雨の日、車で送ってもらった時、娘なる奥さんがいった。「父は頑固でしてねえ、大阪で一人暮らしのころは、苦になって、それなりの親孝行しましたが、今は時折ケンカしますよ。孫たちも、おじいちゃんと離れてる時は何かしてあげたいとよく思ったけど、同居してからはウルサイことが多いって……人間って、おかしなものですね」と。

 

私は言った。「それで結構。笑いやケンカがなかったら一人暮らしと同じで、また病気になりますよ。ケンカも大いに必要、生きてゆく活力のために。この上で大事なことは、このままが一ばん恵まれているという満足感―その究極のよりどころとしての“法”を見つけることですね」。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2022年8月号より)

 

 

しち(実)というは、

かならずもののみ(実)となるをいうなり。

親鸞「浄土和讃」二種目左訓

 

 

ある教育集会で、中学教師A師の事例が報告された。

 

〈三人の生徒が授業中に学校の塀を乗り越えてアイスクリームを買いに行った。戻る途中、そのうちの一人が車に引っかけれられて倒れた。他の二人はその友人を放ったまま学校に戻り、アイスクリームを食べ、皆の中にまぎれこんで知らん顔。倒れた生徒は、やがて救急車が病院に運んだが、高校受験のため、テスト、テストの教育が、彼らの人間としての心を失わせてしまったのだろうか。友人とは単にアイスクリームを一緒に買いにいくだけの隣人にすぎないのか。心と心がつながった真の友だちの在り方を、今の教育のなかではできないのではないか、と考えこんでしまった〉という。

 

浄土真宗の開祖である親鸞聖人は、「実というのは、必ずその身になることだ」と言われ、それこそが仏心、真実の宗教心だとうなずかれた。明治以来の極度の宗教排除の学校教育が、自由競争の資本主義社会の成熟と相まって、いよいよ「人間教育」が歪められたツケが、今日来たのではないかと、思われるのである。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2022年7月号より)

 

 

有情の邪見熾盛にて

叢林棘刺のごとくなり

親鸞「正像末和讃」

 

(意訳)人間のよこしまな思想見解は、さながら燃えあがる火のようにさかんで、また煩悩が満ち満ちているさまは、繁茂した草むらや林のようであり、その煩悩はイバラやカラタチのトゲのように、生きものを刺し害するのである、と。

 

冬の間、空き家にしていた家屋に入って、カーテンを引いたとたん、親指のつけねに熱い針が刺さったような激痛をおぼえた。「あっ、イターッ」、一匹の蜂がカーテン裏にひそんでいた。思わず「この野郎っ…」と、その憎き蜂を紙で摘んで叩きつぶしてやろうとした。と、その時、「妙好人・因幡の源左」とたたえられた島根県山根の足利源左衛門さんの蜂の話が頭をよぎった。

 

―ある日、彼が草刈りをしていたら蜂が源左の額を刺した。すると、源左は「われ(お前)にも人を刺す針があったかいやあ、さてもさても、ようこそ、ようこそ」と言い、再び仕事をつづけ出したのであった。源左は蜂に刺されたことを通して、自分も自我愛という煩悩の針で人を傷つける“加害者”であることを思ったという。彼はいつも「罪深い凡夫の自分」を懺悔してた念仏者であった。

 

私を刺した蜂は、冬眠していた所へ私の手がふれたことで“自己防衛”の本能で刺したのであろう。私は冬ごもりで弱々しくなっていたその蜂を、そっと紙にくるんで日当たりのよい場所へと放った。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2022年6月号より)

 

 

開神悦体(かいじんえったい)

蕩除心垢(とうじょうしんく)

~たましいを開きて

 身体をよろこばしめて、

 心のあかをのぞく~

『大無量寿経』

 

寺の再建や幼稚園の移転のことで心身ともに疲労困憊していた。そんな中で寺の仏事をつとめ、法話会までするのは、とてもきついことに思われた。それが、どうだ。事に当たってみると疲れどころか、気力も出てきて体調もさわやかさえになる。「開神悦体とはこのことだな」と気づいた。

 

同時に、曽我量深という念仏者のことを連想した。師の墨書には「開神悦体」というのが多く残されていて、師は九十六歳で逝かれたが、その前年の八月のある日、翌日から二週間の日程で講演の旅に出るという師に「この暑いのにそのお年でそんな長い旅をされていいのですか?」というと、「列車の中や講話では別に疲れんが、宅にいると何だか疲れるね。疲れるのは意識ですね」と。師の講話は、思索のほとばしりの独白調であり、車中の時間は、こよなき思索三昧であったのだろう。

 

そういえば、御門徒のSさんは在家人だが、法話会には足繁く出向かれる人である。「商売の方と掛けもちで、よく体がつづくねえ」と感心すると、彼もまた「商売のことだと変に疲れますが、仏法のことだと忙しくても少しも疲れないから、妙なんです」と言っていた。

(「同朋選書」より)