あべの即応寺 今月のお話~バックナンバー~

「慈光」通信を読む(2021年8月号より)

 

 

麨蜜(しょうみつ)を食し、

法を聞くことを得るがゆえに、

顔色和悦なり。

『仏説観無量寿経』

 

※麨蜜…小麦粉と蜂蜜を練り合わせた物

 

お好み焼き屋のオバチャンが言うには「商売って妙なもんですね。こちらが“商売だ”とその気になってる日は、お客さん対応にも気分がのり、お客さんの方もつい腰を落ち着けて、余分のものまで注文してくださる。そんな時は店も、不思議にたてこんでくるし、売り上げもウンとあがり、いそがしいというのに、ちっとも疲れません。反対にやる気がしない時は、すぐ疲れて売り上げもサッパリですよ」と。

 

その話を聞いて、『観無量寿経』の「顔色和悦」の一節を思い出した。―王舎城のビンバシャラ王は、実子のアジャセ太子にそむかれて牢獄に閉じ込められたが、后のイダイケ夫人により食を得、また、自らすすんで聞法する身になったので三週間経た後も、王の顔色は、なごやかで喜びに満ち満ちていたのだという。王は不自由な恐ろしい牢獄を、仏法を聞くこの上ない道場としたのであった。

 

この苦難の人生も、よき聞法の道場として謙虚に受け止める時、心豊かな“和悦”の世界が開けてくることを経典は言い当てているのだろう。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2021年7月号より)

 

 

如来は、私の一切の行為について、

責任を負うて下さるることである。

私は、ただこの如来を信ずるのみにて、

常に平安に住することが出来る

清沢満之「我が信念」-

 

 

幼児が注射を怖がって泣き出すと、母親が感情的になって叱り飛ばすことがある。そんな時、N医師はその母親に対し、このように問いかける。

 

 N「なぜ子どもさんを叱るのですか?」

 

 --「周りの人の迷惑になって

    恥ずかしいからです…」

 

 N「迷惑なんてとんでもない。

   恥ずかしくもありませんよ。

   子供は親を信頼して、

   自分をすっかり委ねているからこそ、

   解放された気持ちで

   泣いているんです。

   それを頭から叱りつけるのは、

   お子さんの信頼を裏切る

   ことではないですか?

   親がいない幼稚園で注射を射つ時、

   たいていの園児は顔をしかめ、

   自分の身をつねったり、

   唇を噛んで必死に我慢しています。

   なかには小便を漏らす子だって

   いるくらいです。

   でも、親御さんと一緒だと、

   その安らかさから子供たちは

   みんな安心して泣くことができるんです。

   泣きたいだけ泣かせてあげてみては

   どうでしょう?

   それがお子さんのためなのかも

   しれないのですから」

 

如来は我ら凡夫のいっさいの責任を引き受けてくださる。そのように母親が子どもの身になって、いっさいの責任を背負うところに「真実の親子」関係が成り立つとはいえないだろうか。

 

子を叱る親はあれども、自身を内省して子に詫びる親は少ないようである。 

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2021年6月号より)

 

 

我が産(うま)れたるときは、

此身にひいきする心は

少しもないものでござるが、

成人いたし、あしくそだちて

此ひいきといふものが

出来たのでござる。

盤珪禅師語録「御示聞書」

                          

 

盤珪禅師は「生まれつきたる心が不生不滅の仏身なり」とし、このうぶな心に目覚め、無心にあるがままに生きることの大事を説いた、三百年前の禅僧である。

 

ある幼稚園の女性先生が、園児に「先生は、お母さんみたい?お姉さんみたい?おばあちゃんみたい?」と聞いた。内心は「お姉ちゃんみたい」という返事を期待していたところ、「先生みたい!」という名答が返ってきて、一本やられたと思ったという。純真な幼児の心の眼は、自分を誤魔化さず透明で的確であった。

 

また先日、園外保育で田植え見学に行った時のこと。あとで描かせた印象画の中に人物は豆ほど小さいのに、赤いエビガニを画用紙いっぱいに、でっかく生き生きと描いた子がいた。エビガニへの魅力が忘れられなかったらしい。誠に天衣無縫の傑作であった。

 

だが、こんなすばらしい魂も、人は長ずるにつれ、気づけば嘘(うそ)や諂(へつら)い・驕(おご)りといった“自我の妄執”の中に次第に深く埋もれてしまってゆく。こうした命の純粋性から遠ざかる人間の愚かしさを、仏の教えはかねてから「顛倒(てんどう)」(命の本来性を見失う暗さ)と指摘され、強く警告しきたのだ。そうした自我に立って生きる人間を、再び原点へと回帰せしめるものが、真実の宗教(本願の教え)のはたらきと言わねばなるまい。 

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2021年5月号より)

 

 

人間は不定の境なり、

極楽は常住の国なり。

蓮如上人「御文」

                           

 

手をあげて合図をしたが、はや停留所を出発しかけていたバスは止まらずに行ってしまった。急いでいた私は、「ちぇっ、意地の悪い運転手め…」と、思わず舌打ちをした。

 

次のバスを待っていると、ふと雨模様の空に気づいたので、一度、すぐ向かいの側の自宅に戻り、カサを取りに行った。しばらく待って、次のバスに乗り、終点で下車した頃には小雨はかなりの降りになっていた。

 

カサを取ってきて、ほんとうによかった。前のバスが止まってくれなかったことが幸いしたのだが、さきほどの運転手を恨んだことを思い、ご都合主義の自分の心の動きに、内心あきれないではいられないものがあった。

 

思えば、私たちの日常生活というものは、こと大小を問わず、みなこうした身勝手な自我中心の心で一喜一憂を繰り返してはいないか。まことに苦楽に惑う人間の世界は不定であり、真実(まこと)あることなき我が身である。

 

苦楽を超えた常住の世界とは、仏陀の教法を通して、そうした煩悩具足の凡夫である我が身と自覚されたとき、初めて感知されるのであろう。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2021年4月号より)

 

 

天上天下 唯我独尊

方広大荘厳経

                           

 

四月八日、花のルンビニ園で釈迦族の王子が誕生されました。そのとき王子は、生まれるやいなや、七歩あるいて「ただ我独り尊し」と、のたもうたと経典には記されています。

 

これは何も聖者の出生を、奇跡ふうに粉飾したのではありません。仏伝記者の信の目は、王子出生と、三十五歳のときに仏陀となった釈尊の正覚とを結びつけ、二重映像として、出生の意義を表現したものでした。

 

七歩の歩みとは、「迷い」(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上の境涯)を超えたことを意味していると言われます。

 

また、「独り尊し」とは、自分一人を偉いというのではありません。この自分は、霊妙なる宇宙生命の顕現として尊い存在なのだと。そして、他人もまた同じように尊い。いや人間ばかりでなく、その他いっさい、一木一草、路傍の石にいたるまでもが、大生命の、重々無尽の流れの活現でないものはないのです。

 

この不思議なる大生命の活動の前に、謙虚にひざまずくとき、はじめて無量寿・無量光の中の自己、真実の自己に目覚めてゆくのだと、仏の教えは私たちに伝えているように思うのです。「ああ、尊い自分であった」と。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2021年3月号より)

 

 

人の上ばかりみて、

我が身の上のことを、

たしなまずば、

一大事たるべきと仰せられ候。

蓮如上人御一代記聞書

                           

 

ある銀行で預金係をしているM子さんは先輩格のベテラン行員だが、彼女は感情の振り幅がはげしく、自分と意見が異なる相手には、すぐに感情をむき出しにして敵意をみせてしまう。そのため、同僚ともよくモメごとをおこしていた。

 

ある日、次長が女性行員ばかりの話し合いの場で、

 

「人間は誰しも自分という色眼鏡を通して、物を見たり聞いたりするものです。百人百色、それぞれ考え方も違うのは当然じゃないですか。だから、多少、自分と意見が違ったとしても、すぐ非難したり、喧嘩をするのはどうかと思う。人間尊重というか、お互いに尊敬の念を忘れずに、その人の身になって物事を考えることがヒューマニズムの基調だと思うのです。それがまたお互いの人間関係を美しくたもつ上で大切な事なのではないでしょうか。」

 

すると、M子さんは大きく頷いて、「とてもイイ話じゃない?皆さん、今の次長の言葉をよく味わってちょうだいよ」と、自分には全く関係なしといわんばかりの口ぶりで言ったという。その日の次長の話は、実は一番にM子さんに伝えたかったのだというのに。―何事も〝自分自身を抜き〟にして聞いてしまっていては、畢竟、どんな教えも無価値なものとなってゆく。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2021年2月号より)

 

                    

十方の如来は衆生を

一子のごとく憐念す。

親鸞聖人「和讃」

                       

 

ある商店主が「人間って、ああいうもんですかなぁ。相手のことを思って率直に言ったことで、すっかり仕事熱心になりましてねえ…」と。聞けば新入店員の一人に、最初は退職者の残務を受け継がせたが、どうもパッとしない。この仕事が性に合わないのだと気づいたので「よく検討しないで、今の仕事をやらせて悪かったね。君にはきっと外回りの方がよいと思うが、どうかひとつ頑張ってほしい」と話したところ、とても感銘の様子。それから人が変わったように活き活きとした仕事ぶりになったという。

 

彼は友人仲間に「社長に認められたのだ。全力投球でやってみる」ともらしていたそうだ。自分が他人からよく認められるということは、これほどまでに人の心を明るく開き、ひとつの救いにまでなるものなのか。

 

同様に、宗教的救いというものも、真実なる如来に認められ、願われていることを自覚することではないか。われらの帰依する如来は、人間を存在せしめている根源(一如)より来生せるものであるから、瞬時も離れず我が身に添いたもう〝親様〟である。愚悪なるこの私を〝一子のごとく憐念する〟如来の心を信知することを信心といい、それこそが弥陀の本願のお救いにあずかる大らかなる人生なのだろう。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2021年1月号より)

 

                    

さればよきことも、

あしきことも、

業報にさしまかせて、

ひとえに本願をたのみ

まいらすればこそ、

他力にてはそうらえ。

『歎異抄』

 

s氏の店は、お客が定着して十年、順調にのびてきたが、今度、市の道路拡張で敷地の半分ほども除去されることとなった。そのまま現地で建物を高層化するのが一ばん無難なのだが、それでは構造上どうもまずく、将来の見通しが悪い。かといって移転予定の所有地には、近くに同業者もあり、借金までして新規同様の店が移って成り立つかどうか、冒険すぎる。「なんとかしたい……が、なんともならぬ」と、半年ばかり悩み続けたそうだ。

 

そのs氏に決断を与えたのが仏法だったという。―思えば人は、よく「もう行きづまった。打つ手がない」と苦悩するが、それは人間の、はからいや思いが行きづまるのであって、現実そのものは、少しも行きづまることはないのだ。他力(足下の〝いのち〟の世界)にまかすという智慧によって、s氏は前向きな決断、移転という選択にふみきった。

 

「不安は消えませんが、ただ人事を尽くすのみです。結果は受け止めていきます」という言葉に明るい力がこもっていた。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2020年12月号より)

 

 

 なごりおしくおもえども、

娑婆の縁つきて、

ちからなくしておわるときに、

かの土へはまいるべきなり。

『歎異抄』

 

このごろ、私の身辺のあの人、この人が、相次いで亡くなっていった。すると「自分もこの世においてもらうのは、いよいよ長くないな。明日の日だって―」と思われてくる。

 

家族の者と別れることもつらい。親しい人との別離もさびしい。一生を送った名古屋の町も庭の柳の大木も、みんな名残惜しいのだ。だが「娑婆の縁つきて力なくして終わる時に、かの土へは参るべきなり」と。なんという静寂な境地だろう。なんという確かな心境なのだろう。帰依(きえ)の場所が明らかになった人の言葉である。

 

帰依とは、ある師は「生やそれに依る。死やそれに帰す」といわれたが、その〝それ〟というのが〝かの土〟ということであろう。

わが身は、現に今、かの土なる世界によって支えられ、またその世界へ帰ってゆくべきものであった。―魂の故郷、安養(あんよう)の浄土、自然法爾(じねんほうに)の世界の中に生き、そこへ帰っていく私であった。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2020年11月号より)

 

 

 円融至徳の嘉号は、

悪を転じて徳となす正智。

 親鸞『教行信証』総序 

 

Eさんは幼年時代に縁側から落ち、股関節を脱臼した。そのため五十数歳の今日まで、松葉杖なしでは歩けない重症の身となった。笑いながら「一度でいいから、雨の中をハダシで傘さして、はねてみたいです」と言った言葉が忘れられない。

 

そのEさんの所へ、ある新興宗教の人が入信をすすめに来た。

 

-- 「この宗教に入ると、来世は足がよくなって生まれ変わりますよ」

 

E 「?」

 

-- 「今のあなたの宗教では、生まれ変わっても足は悪いままですよ」

 

E 「…でも、私は歩けないことで長い間、悩み抜いたあげく、やっと自我の思いが砕かれました。こんな驕慢な人間にも法(おしえ)が聞こえるようになったのです。私にとって足を痛めたことが正しい智慧に目を開く最大のご縁でした。なので、足が良くなる為に祈るとか、どこかの神様にお願いをするとかの必要がないんです。このままで、けっこう毎日明るい日暮らしをしていますよ」

 

-- 「…?」

 

Eさんは人生におけるその大きな逆縁を、「私が」という自我執着を破る尊い勝縁としてゆかれたのであった。

(「同朋選書」より)

 

 

「慈光」通信を読む(2020年10月号より)

 

 

 煩悩菩提体無二と…

(左訓=ぼんのう、ぼだいも、

 ひとつみつとなり、ふたつなしとなり)

 親鸞「和讃」より  

 

ある話し合いの場で、三十代の男性が告白した。

 

私は八年前に今の八百屋へ養子にきた。私は自分の手で店を立派にしてみせるぞと、えらい意気込みで商売にはげんだ。ところが一件おいて隣にも八百屋があり店も大きい。目の上のタンコブです。せりあいはエスカレートするばかり。向こうがやるなら、こっちも…と、百円で仕入れたものも百円で売るというケンカ腰でした。そうなると隣の主人が憎くて憎くて、もう何度殺してやりたいと思ったことか…。

 

ちょうど四年前のそのころ、お寺で聞法会がはじまった。〝わが身を知る〟ということを主題に、毎月二回も親鸞聖人の話を聞くようになった。すると、これまで自分という人間がどれほど都合勝手で、自我中心の浅ましい根性で生きてきたかを痛烈に思い知る機会となった。また、おもしろいことに、半年前からその隣の主人も、住職の熱心な勧めで聞法会に来るようになった。私は今あんなに善い男を、どうして殺したいくらいに思ったのか…自分が恥ずかしく恐ろしいのです。

 

その隣の店の主人とは、今こうして私の横におられるTさんなんですよ、と明るく笑った。

(「同朋選書」より)