あべの即応寺 今月のお話~バックナンバー~

「慈光」通信を読む(2024年5号より)

  

 

遺 言

 

若い頃、私は死ぬ怖さをあまり感じませんでした。死ぬことを平然としてみとめ、「死ぬときにあまり見苦しくなく死んで行きたいなぁ」などと思っていました。だから、正月二日の書き初めには、かならず遺言を書きました。

 

でも、私は数年間、その遺言書をつづけるうち、自分で自分を信用しなくなってきました。思いを込めた覚悟の遺書ですのに、毎年、書きたいことが違うのです。自分も、私をめぐる周辺の人も、現象も変化しつつあるのですから、変わるのが当然なのです。ひとつの情け、ひとつの憎しみ、ひとつの困難を通過してさえ、それまでの自分ではありえない人間に、死んでからまで自分の思いをはせたいという根性が間違いかもしれません。

 

正岡子規の〝病床六尺〟に、

 

 悟りというは、

 いついかなる場合にも

 平気で死ぬことかと思っていたが、

 本当の悟りとは、

 いついかなる場合にも

 平気で生きていることであった。

 

とありますが、誠に人間の書き置きなんて、生きている間にいった言葉、行いが、みんな書き置きみたいなもので…。遺言はふだんの日、元気なときに過ごしている仕事や生活の中にのこしてゆくべきもので、いのちある刻々、生きている間のすべてが遺言であると…。

 

充実した日々を送りたいものです。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2024年4号より)

  

 

本当の言葉

 

さまざまな声がこの世の中に流れています。いろいろな言葉が私たちのまわりに語られています。しかし、どの声もどの言葉も私たちを落ちつかせ、本当に満足するものではありません。それどころか、いよいよ私たちの心をかりたて、あらぬ方へ追いたてているようです。

 

損だとか得だとか、良かったとか悪かったとかいいながら日も足らずに走りまわって、本当にくたびれはてているのではないでしょうか。

 

身の疲れは風呂に入って休めば気持ちよくなおります。しかし、今の人の疲れは、風呂に入っても休まらぬ疲れ、言うなれば心の疲れでありましょう。仕事をしても落ちつかず、休んでも安まらぬ心。それはすべて、世の中のどこにでもいっぱい聞こえている声や言葉が、つもりつもって私たちを内部からかき立てているからであります。しかし、いったい人間にはそんな言葉しかないのでしょうか。

 

あるのです。本当の言葉が。私たちのいちばん深いところ、私たちが心とよんでいるもののもっと奥に、この言葉は、言葉にならずに叫んでいるのです。

 

それは、「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします」(歎異抄)と喚びかけるいのちの根源語、『南無阿弥陀仏』。その言葉に耳をすませましょう。私たちは言葉からは離れられないのだから。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2024年3号より)

  

 

不 安  

 

不安とはいったい何なのでしょう。おそれとちがって、何かはっきりした対象があってのことではありますまい。

 

危険や苦しみのこれといった表象と結びつかないもの、言うならば、いつも漠然としたもの。気分的なもの、理由のないもの、それゆえにこそ、かえって不安の不気味があるともいえます。

 

私の方から何かを問うというよりも、逆にいつも私自身を問いかけるようなもの、私自身を根底から揺り動かし、そこから一切の問いが生まれるという、つまり、人間だけに出てくるものといえるでしょう。

 

そう考えてみますと、人間の歴史を通して、その興亡の悪戦苦闘の歩みは、実はこの不安克服の歩みではなかったか。人間が不安でないという状態はどういうことなのか。

 

そのままの状態であるかぎり、たとえいかなる状態の中であろうとも、人間は不安をまぬがれることはできないのではないか。

 

もし不安を克服する道があるとするなら、むしろ、不安自体の持つ意識を、自己自身の上に見出すより他に道はないのではないか。その道を尋ねることこそ、人生の一大事と示し、不安とは真実の自己に目覚めようとする生命の要求(促し)と受け止められたのが宗祖親鸞聖人でありました。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2024年2号より)

  

 

無用の用  

 

※世間で役に立たないとされているものが、

 用い方によって、きわめて大切な役割を

 果たすことがあるという譬え

 

実用という点からいえば、すべての花は無用なのかも知れない。しかし、机の上に一輪の花を投げ入れた花びんはどこにでも見受けられる。やはり人間は無用を知っているらしい。このように人間の賞する花のいのちの悲しさは、花びんの花も大地の花も、人のいのちに似ていよう。

 

われらが芸術を賞する心は、この無用の用を賞する心につながる。宗教もまた世にもっとも無用の用とみなされている。そこにわれらは実用の用はかぎりある用であり、無用の用はかぎりなき用をなすものであることを知り得る。人生の深さはそこにあるからである。

 

    沖の小島にひばりがあがる

    ひばりすむなら畑がある

    はたけあるなら恋がある

 

この詩には何の実用もない。だが、くりかえし朗唱するとき、人生の喜びも悲しみも、温かさも淋しさも、われらの胸にみちて無用のゆたかさと、かぎりなさを覚える。

 

    すずしさや 弥陀成仏のこのかた

 

人生の荒浪にもまれた一茶にも、そよ吹く風を縁として、こうも限りなく真宗念仏の悦びを詠みすて得る信仰の世界があった。

 

私は、しずかに無用の用の尊さを思う。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2024年1号より)

  

 

ほんとうの仕事

 

たいへん、せちがらく、あわただしい世の中、みんなむつかしい顔になるのも無理はない。

 

しかし、ここで立ちあがらなければ、どうなるだろうか。いくら住みにくくても、引っ越してゆくところはない。われわれ自身が立ちあがろうとせず、いたずらに他の力だけをあてにしてもなにもならない。しょせん、われわれのことは、われわれの手でよくするよりほかに道はない。

 

それには、たった一つの方法がある。

 

みんなが、ほんとうの仕事を見つけ、その仕事にうちこむことだ。雪舟が子どものころ、絵ばかりかいているので、和尚さんが怒って、本堂の柱にしばりつけておいた。はじめ、雪舟は泣いていたが、やがて泣きやむと、涙を足の指につけて、鼠をかいた。すると、その鼠がうごき出して、雪舟をしばった縄をといてくれたという。

 

この話には大きな教訓がやどっている。ほんとうの仕事は、不必要な現実のそくばくから、われわれを解放してくれるということである。いたずらにあくせくし、ただそろばんをはじくだけの生活から、ほんとうの仕事は生まれない。みんなが、ほんとうの仕事に生きうるためには、もっともっと自分自身の衷心の願いに耳を傾けることだ。

 

みんなで〝いのちの願い〟に耳をそばだてて、ほんとうの仕事にうちこもうではないか。 合掌

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年12号より)

  

 

学門のかなた

 

小学校へ通っていたころ、朝太陽が出ると、太陽を拝んでる人がたくさんありました。つまらんことをしているなぁと、バカにしたものですが、さて大学を出て研究をしているうちに 、やっと、むしろ私の方が間違っていたと気づくようになりました。

 

おもしろいことには、現在、最先端をゆく原子物理学者が、太陽で行なわれているいわゆる核融合反応なるものを知って、その不思議さにおどろき、かつ、拝みたいような気持ちになるということです。ごく自然に敬虔な気持ちから出た姿と、現代科学の最先端をいく原子物理学者が、別々の立場から同じく太陽を拝みたくなるということは、実に不思議ではありませんか。何も知らないで拝む姿は学問以前の姿ですが、最高の学問をやった学者が拝むのは、学問のかなたの姿といえます。

 

研究というものは、結局はものの真理を究めることにあります。釈尊は現実をつかんで、その現実の中で、いかに生きるかを求めていかれたということですが、そういうことからしますと、学問と宗教とでは、その追求方法とか、対象に違いはあっても、真理を求めるという大きな根本においては、同じことだといえましょう。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年11号より)

  

 

共同の世界

 

なかよくしたい、一つになりたい、この心を持たない人はありませんが、なかよくしよう、一つになろうと思いながら、

なかなかなれない。それは、かえって人間の心で一つにしようとするからではないでしょうか。

 

人間がなかよく一つになろうとするのは、けっきょく、相手を自分の思いどおりにしようとする心がはたらくからであります。それは相手に手を出す心、自分の方へひっぱろうとする心であって、かえって平和を求める心でなく、侵略の心になっているのであります。

 

そういう心はどこから起きるかというと、自分一人で満足できない心、自分が自分に満足できず、一人で不十分・不完全だから、それをおぎなうために他を求め、利用しようという心であります。一人が不足なものは集まって満足になるのではなく、不足が大きくなるだけでありましょう。

 

私一人で充分満足でき、それゆえにまたどんな人とでも一つになれるような世界を見出したいものです。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年10号より)

  

 

凡夫(ぼんぶ)

 

中学二年生のとき、国語の先生が教科書の「平家物語」の中に出てくる「凡夫」という言葉を説明された。その説明を

されるのに、まず「どういうことか」と、みなに聞かれた。「知りません」とみな答えた。

 

すると先生はおどろくべき正解を用意されていた。

 

   「凡夫とは、つまりわれわれのことやな」

   「先生も?」

   「そうや。凡夫や」 

 

先生がつまらぬ人か、とわれわれはびっくりしてしまったが、

 

 「ところで、日本の歴史上の人物の中で、誰が最初に自分が凡夫であると悟られたか」と聞かれた。

 

中学二年の子供にはむりな質問だったが、みなけんめいに考えた。

 

先生がいわれた。

 

 「その人が日本の歴史のなかで、もっとも偉大な発見をした人や」

   (自分が凡夫だと知ったことが、それほど偉大なことなのか)

 

私どもにはわからなかった。

 

 「それは、法然上人と親鸞聖人や」

 

と、先生はいった。

 

「凡夫」ということばのもつ深刻な意味は、いまの齢の私にはまだわからない。これは一生の仕事かもしれない。

(司馬遼太郎)

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年9号より)

  

 

眼を開く

 

ニ・三千円の品物を「タッタ五百円!」という売り

文句にだまされたと愚痴をこぼす人がある。雑巾の

ごとくしぼってもシワひとつよらないズボンが、たった

五百円であるはずがない。

 

 自分の欲心にだまされたのである。

 

「悪友にさそわれて道楽息子になった」と、世の親はなげく。

本当にそうだろうか?

「だまされた」「さそわれた」「引っぱりこまれた」という人の心を裏から言えばこうである。「自分はだまされるようなばかではない」「私の息子はあんな道楽息子になるような悪い性質ではないのに…」と、心のどこかでひそかに誇っているのである。

 

欲の心、いい目をしたいという自分の心をそっとつつみ、他に責任転換しているのである。

 

原因は私にある。原因をはっきり私に発見できた人はだれをもうらまない。責められるべきものがあるとすれば、それこそ私の心である。

 

「因」を私に発見できる人のみが、万事を私の責任として受け取ってゆけるのである。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年8号より)

  

 

おろかさ

 

人間は数えきれないほどいます。ですが、この「私」という

ものは世界中にたった一人しかおりません。

 

人間の中の「私」というたった一人しかいないものを問題とするということは、とても大切な領域のはずです。

人間がいくら明らかにされても、それで「私」もあきらかになるということはありません。しかるに、人間が明らかになれば人間の中の「私」が明らかになると簡単に考えている立場が、学問の態度にも無批判にひそんでいるようであります。

 

学問で私が明らかになるのなら、学者ほど尊いものはないはずですが、時として、その学者先生が「私としたことがどうしてこんな…」と思わずため息をつかれることのあるのは、学者でもこの「私」のことは自分ではわからないからでありましょう。いざ自分のこととなると何もわからないというのを、古い言葉で「一文不知」といっております。実はこれは、はずかしいことと思い込まれていますが、はずかしいどころか、「一文不知」というところに、かえっていっそう深くよろこびが認められているのであります。

 

社会科学や民主主義でさっそく平和がやってくるわけでもないようです。ここから考えても、かえって人間を平等に「一文不知」と自覚する智慧から「私」が見出されるということの方が、人間にとってとても大切なことであるように思うのです。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年7号より)

  

 

明と闇

 

夜中に起きて、くらい所で火鉢にすねを

ぶっつけます。その痛さで「誰がこんな所へ

火鉢を置いたんだ!」と他人をののしります。

くらいから火鉢が見えないのです。置いた他人を責めて、ぶつかった自分については気がつこうともしない。人間にはそうしたくらさというものがあります。

 

灯りがあって、火鉢が見えれば、よけて通るでしょう。また、くらさというものをはっきりと知っていた場合も、”ああ、自分が悪いのだ…“と分かり、痛さも、痛いには痛くても、それほど切ながることはなくてすみます。自分が悪いのであれば自業自得というわけですから、その痛みも当然、自分の受けるべきものとして安らかに受けてゆけるのでしょう。

 

同様に、仏の教えとは、この世界を照らし出す正しい智慧の”光“。「聞法」こそ、仏の法の光によって、正しくものが照らし出され、自分知らずの愚かなる我が身の闇さを如実に知らされてくる自己再発見の歩みなのです。

(「同朋選書」より)

 

 

 

 

 

 

「慈光」通信を読む(2023年6月号より)

  

 

いらだち

 

誰か我を

思う存分叱りつくる人あれと思う

何の心ぞ

― 石川啄木 ―

                                       

 

というのがあります。ひと一倍意地っ張りで、またそのために、ひと一倍淋しがり屋であったこの不幸な詩人の、微妙な心の動きが感ぜられる歌です。そしてそれは、そのまま叱ってくれる人をもたない現代の私たちの心に通じるもののようです。

 

啄木が「思う存分叱りつくる人」を求めたのは、彼自身さえどうしようもない自信を、根こそぎ打ち砕いてくれるような、強烈な叱責のまえに身をさらすことによって、不安定な状態から脱することを願ったのだといえないでしょうか。頑固な彼の自己信頼からは、出てくるはずのないこの”ひそかな願い“は、彼自身「何の心ぞ」といぶからずにおれないような、心の深い動きがあったのでしょう。

 

知識を得て自分をたかめ強めるのではなく、反対に、常に自分を危機にさらすことによって、自分を真に解放してくれる道を求める。そのような”ひそかな衝動“を大切にしたいものです。

(「同朋選書」より)

 

(「同朋選書」より)